2013年9月16日月曜日

片山杜秀『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(新潮選書、2012年)の感想など

第一次世界大戦に興味を持ちだした頃だろうか、私には長らく疑問に思っていたことがある。
それは「第一次世界大戦の『予示』ともいえる日露戦争を戦った日本は、その経験ゆえに、第一次世界大戦型の戦争への対応については世界的にリードする立場であってもよかったはずなのでは?」ということである。
もちろん、この疑問の後には、「それなのに、第二次世界大戦での日本軍のあり方を見る限り、全くそうではない」と続く。

あまり積極的に疑問の解消へ向かう努力をしていたわけではないが、無論、主に『歴史群像』などで知識を入れており(いわゆるミリタリー雑誌に属する部類であり学術的な文章でないことは最初に断っておく)、総力戦体制へ向けて産官学軍そろって第一次世界大戦を経験したヨーロッパから知識を吸収できるだけ吸収し、応用しようと努力したという知識は、不十分ながらも取り込んでいた。
例えば、学で言えば、東京・京都の両帝国大学に経済学部が第一次世界大戦後に設置されたのは総力戦に対応できる経済体制を構築するための研究を行うためであったというのは、山室信一『複合戦争と総力戦の断層―日本にとっての第一次世界大戦』(「レクチャー第一次世界大戦を考える」シリーズ、人文書院、2011年) の合評会に参加した際、山室先生がおっしゃっていたし、歴史群像 No.118 2013年4月号所収の田村尚也「国家総動員法への道 総力戦に備えよ!」は先述の通りであるが、逆にそれ故、コンパクトに、国家ぐるみでの総力戦体制へ向けて官をメインにヨーロッパに学んだ様子が描かれる。
産については、同じく歴史群像 No.94 2009年 4月号所収の中西正記「国家の動脈を確保せよ! 総力戦と鉄道行政」にてこれまたコンパクトに、官の主導のもと産の側で日本国内の鉄道が吸収・統合を繰り返し、合理化されていく様子を提示している。
歴史群像 No.121 2013年 10月号所収の田村尚也「「総力戦」から見た陸軍派閥抗争 皇道派vs. 統制派」ではタイトルの通り、軍内部での「総力戦」に対応するための軍政をめぐっての、端的に言ってしまえば「ごたごた」をまとめている(これもコンパクトに)。

しかし、どれもこれも、第一次世界大戦を話のスタートに据えており、「日露戦争→第一次世界大戦→戦間期(=総力戦体制構築期?)→第二次世界大戦」といった流れでは論述されていないし、それゆえ、私の疑問にも答えてくれてはいないように思う。

今回、紹介・感想を書いてみる片山杜秀『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(新潮選書、2012年)はしかし、この疑問にある程度の答えを与えてくれたように思う。(先述の田村「「総力戦」から見た陸軍派閥抗争 皇道派vs. 統制派」でも参考文献のトップに挙げられていてネタ本と言ってもいいと思う)

日露戦争と第一次世界大戦の直接の連続性を述べているのが第2章の「物量戦としての青島戦役―日本陸軍の一九一四体験」である。
ドイツの事実上の植民地である青島の日本軍による占領では、砲兵=火力を重視し、旅順攻略の無謀な歩兵突撃も見られないし、太平洋戦争での精神力偏重な陸軍のあり方も見られない火砲という科学や合理性を重視した戦い方が展開される。これは日露戦争の旅順での苦戦を反面教師としていたのだと筆者は(乃木希典を弁護しつつ)主張している。日本軍は日露戦争に学んでいたというのだ。
次章「参謀本部の冷静な『観察』」では、ヨーロッパに派遣された観戦武官が第一次世界大戦の実相をどのように評価していたかを論じているが、日露戦争に関して言えば、日本軍の観戦武官は「ヨーロッパ諸国は日露戦争から誤った戦訓を引き出している」と評していたことが示される。これは主に、ベルクソンの「エラン・ヴィタール」の概念を援用して、無謀な突撃を繰り返したフランス軍を指している。
彼らは旅順攻略から当事者たる日本軍とは異なり「精神力で優位に立つ者が戦いを制する」という戦訓を引き出し、火力重視から歩兵による突撃重視へとドクトリンを組み替えたとまで書かれている。
この本には書かれていないが、史実としては結局、連合軍は火力・機械化戦力重視へと傾き第一次世界大戦では勝利を収め、フランス軍は第二次世界大戦でも火力は重視する軍備・ドクトリンを維持していいく(機械化兵力については第二次世界大戦型の運用を脱しきれなかったが)。また、敗れたドイツ軍は機械化戦力およびそれを駆使した運動戦重視の軍備・ドクトリンを整備していく。
青島占領の時期に「戦車」などはなかったため、これを排しても、なお、この時期の日本軍は日露戦争を見て逆に振れてしまった同時期の国々に対し、一歩先んじていたと言えるのではないだろうか。
筆者の日露戦争から第一次世界大戦への連続性の叙述はその後の「変質」との対比以上の重きを置いていないため、ここまで踏み込んだ叙述はしていないが。

第4章「タンネンベルク信仰の誕生」で読者に見取り図を展開した後、筆者は本題へと移る。

「皇道派」も「統制派」も、ヨーロッパ現地で学び取った「総力戦」へどう対応するかという問題について考えていたことは一致していた。対立点はその対応の方法だったのである。

「持たざる国は持たざる国らしくあるべきである」と考えたのが「皇道派」
「持たざる国を持てる国にすべきである」と考えたのが「統制派」

第5章では小畑敏四郎を引っ張り「皇道派」がいかに身の丈に合った戦争を行うかについて述べられている。
その方法とは端的に言えば、「タンネンベルク殲滅戦を再現する」こと。しかし、現地で「総力戦」を学んだ小畑は大国相手に日本陸軍がタンネンベルクを再現できるとは考えていなかった。
小畑らの考えは
1)「「持たざる国」日本よりもさらに「持たざる国」相手に」
2)「タンネンベルク殲滅戦を再現すること」
であったと筆者や再現してみせる。
(2)は『統帥綱領』に記載された一方、(1)については、事実上の「「持てる国」相手の戦争には勝てません」と述べるに等しく、「命ぜられればそれに粛々と従う」軍人の本分から外れるとして、「皇道派」の高級軍人の胸のうちに秘せられることとなったという。
筆者は『統帥綱領』に明記された(2)を「顕教」、(1)の留保を「密教」と称しているが、もっとわかりやすく「ホンネとタテマエ」でも十分に意を尽くしているであろう。

第6章では、この「皇道派」に最終的に取って代わった「統制派」の思想を石原莞爾を引いて説明する。
「持たざる国」を「持てる国」にするのに石原が手を付けたのが満州。この地の資源を開発し、産業を育成し、日本を「持てる国」にする。それまでは大戦争は行わない。それが石原の考えであった。石原の誇大妄想気味の試算でも30年以上かかる大仕事だった。
が、満州は石原の手から滑り落ちることとなる。

ここで、「皇道派」のつくりだした『統帥綱領』でその密教を知らず、かつ、日本を「持てる国」にできてもいない「統制派」が陸軍の実権を握り、太平洋戦争へ向かうという捩れた構図が出来上がるのである。

続いて、筆者は本書の表題たる「未完のファシズム」として、明治憲法下での総力戦体制構築の困難さを説明する。
端的に言えば、明治憲法のシステムは権力のバランス重視・一極集中を避けるため、と言えば聞こえはいいが、総力戦には向いていないシステムであったのである。
有名な陸海軍間のみならず、閣僚間にも、そして、軍政間にも、ろくな協力・統制関係もない。
それでも、それまでの国家存亡をかけた戦争、特に日露戦争を戦えたのはなぜか。それは「元老」という明治維新の立役者がいたからであった。これについては特に筆者だではなく、『太平洋戦争 決定版 (1) 「日米激突」への半世紀 』(歴史群像シリーズ)所収の黒野耐「「合意なき国家」大日本帝国の迷走」でも指摘されていることではある。

第8章では中柴末純を中心に「玉砕への道」を示す。
中柴はかの有名な「生きて虜囚の辱を受けず」を含む『戦陣訓』の起草者の一人と言われている。
またもや彼とて、工兵出身の合理主義者で総力戦をよく知っている。
中柴にとって「皇道派」も「統制派」も意味がなかった。先述の通り、軍が外交も内政も主導できない体制下では戦争のタイミングも相手も選べないし、喧嘩は相手が売ってくるものかもしれない。
では、どうやって勝つか。答えは「敵の前で死んでみせることで相手を戦慄させること」だった。
では、なぜ死ねるのか。筆者は思想的な系譜をたどっているが、私なりの言葉で書けば「天皇という日本人の中心がある限り、個は死んでも集団は死なない」からだった。

終章は補論といったところ。


全体として敬体の読みやすい文章であり、内容も一般読者を想定してか、かなり咀嚼されており、さらっと読めた。
内容も私には説得的で、「玉砕」への道を精神史という観点から説明しようという本書の試みは私にとってはほぼ成功しているように思えた。
「皇道派」にせよ「統制派」にせよ「玉砕派」(←今、私が付けた)にせよ、彼らの中に走っているのは「彼らなりの」という留保が付くものの合理性であり、その結末にあるのが合理性を超越した精神主義であったことは皮肉としか言いようがない。
ただ、この本の説明だけで、「玉砕」への道を納得してはいけないのだろうな、という気もする。というのも、当然、精神史の説明でしかないからだ。
先述した『太平洋戦争 決定版 (1) 「日米激突」への半世紀 』(歴史群像シリーズ)に所収されている片岡徹也「日本陸海軍の用兵思想"お坊ちゃん"と"放蕩息子"」では"放蕩息子"たる日本陸軍がいかに、プロイセン=ドイツ参謀本部からそのエッセンスを学び損ねたかを論じ、太平洋戦争は兵学上の兄弟の戦いであったと主張されている。
先述の田村「「総力戦」から見た陸軍派閥抗争 皇道派vs. 統制派」では、山梨軍縮と宇垣軍縮と、同じ「軍縮」であっても、「皇道派」に沿った前者と「統制派」に沿った後者とでは性質が異なるものであったとし、どっち付かずの中途半端なものであったと結論付け、軍政のあり方も視野に収めている。
そして何より、第一次世界大戦後の日本の軍人がそこまで「総力戦」、「持てる国」、「持たざる国」といった問題に向き合わざるを得なかったかの説明がされていなかったように思う。自分がすでに述べた山室信一『複合戦争と総力戦の断層―日本にとっての第一次世界大戦』(「レクチャー第一次世界大戦を考える」シリーズ、人文書院、2011年)をすでに読んだり、その合評会に参加していたためだろうか、「大戦はまた起こるし、それに日本は巻き込まれる」という当時の日本軍部などの強迫観念が本書全体を重低音のように響きながら、説明がされていなかったように感じてしまった。

あとは、話が日本陸軍のみで進められており、海軍への言及がなかったことであろうか。「十死零生」の「特攻」を始めたのは海軍であったことを考えると、結論は「中柴の延長線上に「特攻」の思想もあります」でもいいので、本書はそのことまで言及してもよかったのではないだろうか。

『戦争社会学ブックガイド: 現代世界を読み解く132冊』をちょこちょこ読んでいるのであるが、この中で印象的なことの1つとして「戦争は平時との断絶のみではなく、連続性である」ということがある。今回の本にも当てはまるなぁ、というのが漠然とした感想である。戦間期の「総力戦」研究とそれへの対応はもちろんのこと、『ブックガイド』のどこかで述べられていた「戦時の総動員体制が戦後の高度経済成長を実現した」という部分は石原の1970年代に「持てる国」にする「荒唐無稽」な計画も、ひょっとしたら、あながち間違いとは言えないのかも、とか思った。
無論、満州事変以降、孤立を深めて世界経済から切り離されてどんどん苦しくなっていく戦前日本と西側の資本主義経済の世界の一員として生きていくことを決めてその中で繁栄していく日本とを比較するのは前提条件としてあまりにも違いすぎるのだが。

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