2013年12月14日土曜日

Ubuntu 13.10でtexliveを入れるとシステムのフォントがIPAフォントになってしまうのを直す

TeX環境をレポジトリからUbuntu 13.10に入れて作業しているのですが、入れた途端、システムのフォントがIPAフォントに変わってしまうのが気に入らないので直す方法。

状況整理

TeX環境の構築はtexlive-lang-cjkパッケージをインストールすれば一発です。

問題点

texlive-lang-cjkはfonts-ipafont-mincho, fonts-ipaexfont-mincho, fonts-ipaexfont-gothicに依存していて、どうやら、システムのフォントがこれらに置き換わってしまう模様。
→TeXで使うから依存関係なんだろうし、TeXのコンパイルに問題があるのも嫌なので、依存関係を壊さずに解決したい

解決策(良いとは言いがたい)

/etc/fonts/conf.availから65-fonts-ipa*を移動して、 sudo fc-cache -fv として再起動。
とりあえず直りました。見やすいです。TeXのコンパイルもきれいに通りました。
ですが、あまり気持ちはよくないです。頭の数字を増やすのがいいのかな。

2013年10月16日水曜日

国防軍とヒトラー I 引用1

エーベルトにとっては、僅か一年前に怒ったばかりのロシアの諸事件と同様のことが起こっていることは余りにも明白であったし、また余りにも恐ろしいことであった。すでにスパルタクス団は街頭に進出していた。ヴィルヘルム街の宰相官邸の中に坐ったままで、彼は、宮城にある根城から出てウンター・デン・リンデンを行進してゆく彼らのデモのざわめきを聞くことが出来た。ここで妥協したら、彼と彼の仲間はケレンスキーの二の舞を演ずることになるかも知れなかった。何故なら、そうしたら、スパルタクス団は、大した努力もせずに、協議会の指導権を握って、政府に既成事実を突きつけることが出来るであろうから。また、そうなればボルシェヴィズムが支配することなろうし、そして、そのような事態にたちいたった場合に、彼が独立社会民主党の支持をあてにすることができないことは明白であった。
このようにして、あの十一月九日の運命的な夜には、内乱の妖怪に取りつかれていたエーベルトは彼の弱々しい権威を支えるための手段を絶望的に探し求めていたのであった。彼が頼りにすることが出来るのはいかなる勢力であったろうか?将校団はどうだったろうか?回答は劇的な形で突然やって来た。宰相のテーブルの上には、彼とスパの大本営とを個人的に、秘密の裡につなぐ電話がのっていた。不幸なマックス・フォン・バーデンが皇帝に対して、帝位を救うためには彼自身を犠牲にするように、と説得するために最後の絶望的な努力を行なって、失敗したのもこの電話を使ってのことであった。今度はその同じ受話器がマックス公の後継者に希望の便りを伝えて来た。エーベルトはその時一人きりであった。窓は閉ざされ、カーテンは引かれていた。しかし、それらを通して街頭のデモの騒がしい叫びは聞こえて来た。突然、電話が鳴り出して、他のすべての雑音を消してしまった。エーベルトは受話器をふるえる手で取上げた。そして、彼は喜びの余りに泣き出さんばかりになった。
「もしもし、グレーナーですが。」
スパからのきびきびとしたど軍人の声は尋ねた。政府はドイツを無政府状態から守り、秩序を回復しようという意志がありますか?
「そうしたいと思っています。」とエーベルトは言った。「それでは最高司令部は軍隊の規律を維持し、それを平和の裡に帰還させます。」とグレーナーは答えた。エーベルとは尋ねた。最高司令部は兵士協議会に対してどのような態度をとられますか?彼らを友好的に取扱えという命令を出しました、というのがその返答であった。宰相は更に尋ねた。「我々がどうすることをお望みですか?」「最高司令部は、政府が将校団と協力してボルシェヴィズムの抑圧と軍規の維持にあたることを期待しています。また、軍隊への食糧の供給が確保され、交通運輸の妨害が排除されるようお願いします。」最後に、ヒンデンブルクが軍の指導者としてとどまることが報告された。
このようにして、電話を通じての五、六回の言葉のやりとりのうちに、敗北した軍隊と動揺した半革命的政権との間には一つの協定が結ばれた。そして、この協定はその双方の当事者を極左的革命勢力から救うことにはなったが、同時に、ワイマール共和国は、この協定が結ばれたことによって、誕生の時に既にその没落を運命づけられたのであった。

pp. 127 - 28

2013年10月5日土曜日

読書メーター使いにくいなと思ってブクログに乗り換えたらとても使いやすくて感動した件

タイトルの通り。
(以下、個人の感想です。各文、各文節ごとに「※個人の感想です」を補って読んでください。)

読書メーターのUI使いにくすぎ。
本を検索するのに和書・洋書って項目の存在理由がわからない。
和書・洋書でフィルターいけない状況が想像できない。私に言わせれば、タイトル入れれば和書か洋書かは大半の書籍で区別がつく(Lancester, "Aircraft in warfare, the dawn of the fourth arm"ってタイトルの和書があるのか???)ので、和書のまま洋書のタイトル入れてひっかからないとかいうのとてもイラつく。
あと、これは私の環境だけかもしれないけど、洋書名で検索かけると、スペースを勝手に省いて、次のページを押すと「そういう本ない」って言ってくるのもストレスだった。動きも遅い。
読書メーターは名前の通り「読書」に特化してて、読んだページ数に関する情報とかが出て、そういう機能はまぁ、いいんじゃないかなと思うけど、使用日数で既読書籍の総ページ数を割って何になるのか私にはわからなかったので、とどまる理由もなかった。

ブクログはその点、読書に特化しているのではなく、簡単に言えばAmazonで取り扱ってる各種媒体をすべてという感じ。検索カテゴリーも和書・洋書とかいう検索の上で利点のないものではなく、Amazonの分類にほぼ準拠していると思われる媒体別。検索欄に和洋を問わずタイトルを入れれば的確に本を表示してくれるのはサイコー。(というか当然でしょ)
DVDやCDのレビューを書けるのは個人的には良いと思うし、AmazonのアフェリエイトIDも使えるので良い。レビューをブクログにまとめるインセンティブがあるのでレビュー関係はブクログで基本的にはやっていこうと思う。

最初に読書メーターに入ったのはTwitterで(読書面で)気になる人がこれ使ってるパターンが多かったから、多分便利なんだろうという曖昧な理由だったけど、最初からブクログも検討すべきだった。自分の求めるサービスではなかった。読書メーターは気になる人たちのウォッチ用にする。

2013年9月16日月曜日

片山杜秀『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(新潮選書、2012年)の感想など

第一次世界大戦に興味を持ちだした頃だろうか、私には長らく疑問に思っていたことがある。
それは「第一次世界大戦の『予示』ともいえる日露戦争を戦った日本は、その経験ゆえに、第一次世界大戦型の戦争への対応については世界的にリードする立場であってもよかったはずなのでは?」ということである。
もちろん、この疑問の後には、「それなのに、第二次世界大戦での日本軍のあり方を見る限り、全くそうではない」と続く。

あまり積極的に疑問の解消へ向かう努力をしていたわけではないが、無論、主に『歴史群像』などで知識を入れており(いわゆるミリタリー雑誌に属する部類であり学術的な文章でないことは最初に断っておく)、総力戦体制へ向けて産官学軍そろって第一次世界大戦を経験したヨーロッパから知識を吸収できるだけ吸収し、応用しようと努力したという知識は、不十分ながらも取り込んでいた。
例えば、学で言えば、東京・京都の両帝国大学に経済学部が第一次世界大戦後に設置されたのは総力戦に対応できる経済体制を構築するための研究を行うためであったというのは、山室信一『複合戦争と総力戦の断層―日本にとっての第一次世界大戦』(「レクチャー第一次世界大戦を考える」シリーズ、人文書院、2011年) の合評会に参加した際、山室先生がおっしゃっていたし、歴史群像 No.118 2013年4月号所収の田村尚也「国家総動員法への道 総力戦に備えよ!」は先述の通りであるが、逆にそれ故、コンパクトに、国家ぐるみでの総力戦体制へ向けて官をメインにヨーロッパに学んだ様子が描かれる。
産については、同じく歴史群像 No.94 2009年 4月号所収の中西正記「国家の動脈を確保せよ! 総力戦と鉄道行政」にてこれまたコンパクトに、官の主導のもと産の側で日本国内の鉄道が吸収・統合を繰り返し、合理化されていく様子を提示している。
歴史群像 No.121 2013年 10月号所収の田村尚也「「総力戦」から見た陸軍派閥抗争 皇道派vs. 統制派」ではタイトルの通り、軍内部での「総力戦」に対応するための軍政をめぐっての、端的に言ってしまえば「ごたごた」をまとめている(これもコンパクトに)。

しかし、どれもこれも、第一次世界大戦を話のスタートに据えており、「日露戦争→第一次世界大戦→戦間期(=総力戦体制構築期?)→第二次世界大戦」といった流れでは論述されていないし、それゆえ、私の疑問にも答えてくれてはいないように思う。

今回、紹介・感想を書いてみる片山杜秀『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(新潮選書、2012年)はしかし、この疑問にある程度の答えを与えてくれたように思う。(先述の田村「「総力戦」から見た陸軍派閥抗争 皇道派vs. 統制派」でも参考文献のトップに挙げられていてネタ本と言ってもいいと思う)

日露戦争と第一次世界大戦の直接の連続性を述べているのが第2章の「物量戦としての青島戦役―日本陸軍の一九一四体験」である。
ドイツの事実上の植民地である青島の日本軍による占領では、砲兵=火力を重視し、旅順攻略の無謀な歩兵突撃も見られないし、太平洋戦争での精神力偏重な陸軍のあり方も見られない火砲という科学や合理性を重視した戦い方が展開される。これは日露戦争の旅順での苦戦を反面教師としていたのだと筆者は(乃木希典を弁護しつつ)主張している。日本軍は日露戦争に学んでいたというのだ。
次章「参謀本部の冷静な『観察』」では、ヨーロッパに派遣された観戦武官が第一次世界大戦の実相をどのように評価していたかを論じているが、日露戦争に関して言えば、日本軍の観戦武官は「ヨーロッパ諸国は日露戦争から誤った戦訓を引き出している」と評していたことが示される。これは主に、ベルクソンの「エラン・ヴィタール」の概念を援用して、無謀な突撃を繰り返したフランス軍を指している。
彼らは旅順攻略から当事者たる日本軍とは異なり「精神力で優位に立つ者が戦いを制する」という戦訓を引き出し、火力重視から歩兵による突撃重視へとドクトリンを組み替えたとまで書かれている。
この本には書かれていないが、史実としては結局、連合軍は火力・機械化戦力重視へと傾き第一次世界大戦では勝利を収め、フランス軍は第二次世界大戦でも火力は重視する軍備・ドクトリンを維持していいく(機械化兵力については第二次世界大戦型の運用を脱しきれなかったが)。また、敗れたドイツ軍は機械化戦力およびそれを駆使した運動戦重視の軍備・ドクトリンを整備していく。
青島占領の時期に「戦車」などはなかったため、これを排しても、なお、この時期の日本軍は日露戦争を見て逆に振れてしまった同時期の国々に対し、一歩先んじていたと言えるのではないだろうか。
筆者の日露戦争から第一次世界大戦への連続性の叙述はその後の「変質」との対比以上の重きを置いていないため、ここまで踏み込んだ叙述はしていないが。

第4章「タンネンベルク信仰の誕生」で読者に見取り図を展開した後、筆者は本題へと移る。

「皇道派」も「統制派」も、ヨーロッパ現地で学び取った「総力戦」へどう対応するかという問題について考えていたことは一致していた。対立点はその対応の方法だったのである。

「持たざる国は持たざる国らしくあるべきである」と考えたのが「皇道派」
「持たざる国を持てる国にすべきである」と考えたのが「統制派」

第5章では小畑敏四郎を引っ張り「皇道派」がいかに身の丈に合った戦争を行うかについて述べられている。
その方法とは端的に言えば、「タンネンベルク殲滅戦を再現する」こと。しかし、現地で「総力戦」を学んだ小畑は大国相手に日本陸軍がタンネンベルクを再現できるとは考えていなかった。
小畑らの考えは
1)「「持たざる国」日本よりもさらに「持たざる国」相手に」
2)「タンネンベルク殲滅戦を再現すること」
であったと筆者や再現してみせる。
(2)は『統帥綱領』に記載された一方、(1)については、事実上の「「持てる国」相手の戦争には勝てません」と述べるに等しく、「命ぜられればそれに粛々と従う」軍人の本分から外れるとして、「皇道派」の高級軍人の胸のうちに秘せられることとなったという。
筆者は『統帥綱領』に明記された(2)を「顕教」、(1)の留保を「密教」と称しているが、もっとわかりやすく「ホンネとタテマエ」でも十分に意を尽くしているであろう。

第6章では、この「皇道派」に最終的に取って代わった「統制派」の思想を石原莞爾を引いて説明する。
「持たざる国」を「持てる国」にするのに石原が手を付けたのが満州。この地の資源を開発し、産業を育成し、日本を「持てる国」にする。それまでは大戦争は行わない。それが石原の考えであった。石原の誇大妄想気味の試算でも30年以上かかる大仕事だった。
が、満州は石原の手から滑り落ちることとなる。

ここで、「皇道派」のつくりだした『統帥綱領』でその密教を知らず、かつ、日本を「持てる国」にできてもいない「統制派」が陸軍の実権を握り、太平洋戦争へ向かうという捩れた構図が出来上がるのである。

続いて、筆者は本書の表題たる「未完のファシズム」として、明治憲法下での総力戦体制構築の困難さを説明する。
端的に言えば、明治憲法のシステムは権力のバランス重視・一極集中を避けるため、と言えば聞こえはいいが、総力戦には向いていないシステムであったのである。
有名な陸海軍間のみならず、閣僚間にも、そして、軍政間にも、ろくな協力・統制関係もない。
それでも、それまでの国家存亡をかけた戦争、特に日露戦争を戦えたのはなぜか。それは「元老」という明治維新の立役者がいたからであった。これについては特に筆者だではなく、『太平洋戦争 決定版 (1) 「日米激突」への半世紀 』(歴史群像シリーズ)所収の黒野耐「「合意なき国家」大日本帝国の迷走」でも指摘されていることではある。

第8章では中柴末純を中心に「玉砕への道」を示す。
中柴はかの有名な「生きて虜囚の辱を受けず」を含む『戦陣訓』の起草者の一人と言われている。
またもや彼とて、工兵出身の合理主義者で総力戦をよく知っている。
中柴にとって「皇道派」も「統制派」も意味がなかった。先述の通り、軍が外交も内政も主導できない体制下では戦争のタイミングも相手も選べないし、喧嘩は相手が売ってくるものかもしれない。
では、どうやって勝つか。答えは「敵の前で死んでみせることで相手を戦慄させること」だった。
では、なぜ死ねるのか。筆者は思想的な系譜をたどっているが、私なりの言葉で書けば「天皇という日本人の中心がある限り、個は死んでも集団は死なない」からだった。

終章は補論といったところ。


全体として敬体の読みやすい文章であり、内容も一般読者を想定してか、かなり咀嚼されており、さらっと読めた。
内容も私には説得的で、「玉砕」への道を精神史という観点から説明しようという本書の試みは私にとってはほぼ成功しているように思えた。
「皇道派」にせよ「統制派」にせよ「玉砕派」(←今、私が付けた)にせよ、彼らの中に走っているのは「彼らなりの」という留保が付くものの合理性であり、その結末にあるのが合理性を超越した精神主義であったことは皮肉としか言いようがない。
ただ、この本の説明だけで、「玉砕」への道を納得してはいけないのだろうな、という気もする。というのも、当然、精神史の説明でしかないからだ。
先述した『太平洋戦争 決定版 (1) 「日米激突」への半世紀 』(歴史群像シリーズ)に所収されている片岡徹也「日本陸海軍の用兵思想"お坊ちゃん"と"放蕩息子"」では"放蕩息子"たる日本陸軍がいかに、プロイセン=ドイツ参謀本部からそのエッセンスを学び損ねたかを論じ、太平洋戦争は兵学上の兄弟の戦いであったと主張されている。
先述の田村「「総力戦」から見た陸軍派閥抗争 皇道派vs. 統制派」では、山梨軍縮と宇垣軍縮と、同じ「軍縮」であっても、「皇道派」に沿った前者と「統制派」に沿った後者とでは性質が異なるものであったとし、どっち付かずの中途半端なものであったと結論付け、軍政のあり方も視野に収めている。
そして何より、第一次世界大戦後の日本の軍人がそこまで「総力戦」、「持てる国」、「持たざる国」といった問題に向き合わざるを得なかったかの説明がされていなかったように思う。自分がすでに述べた山室信一『複合戦争と総力戦の断層―日本にとっての第一次世界大戦』(「レクチャー第一次世界大戦を考える」シリーズ、人文書院、2011年)をすでに読んだり、その合評会に参加していたためだろうか、「大戦はまた起こるし、それに日本は巻き込まれる」という当時の日本軍部などの強迫観念が本書全体を重低音のように響きながら、説明がされていなかったように感じてしまった。

あとは、話が日本陸軍のみで進められており、海軍への言及がなかったことであろうか。「十死零生」の「特攻」を始めたのは海軍であったことを考えると、結論は「中柴の延長線上に「特攻」の思想もあります」でもいいので、本書はそのことまで言及してもよかったのではないだろうか。

『戦争社会学ブックガイド: 現代世界を読み解く132冊』をちょこちょこ読んでいるのであるが、この中で印象的なことの1つとして「戦争は平時との断絶のみではなく、連続性である」ということがある。今回の本にも当てはまるなぁ、というのが漠然とした感想である。戦間期の「総力戦」研究とそれへの対応はもちろんのこと、『ブックガイド』のどこかで述べられていた「戦時の総動員体制が戦後の高度経済成長を実現した」という部分は石原の1970年代に「持てる国」にする「荒唐無稽」な計画も、ひょっとしたら、あながち間違いとは言えないのかも、とか思った。
無論、満州事変以降、孤立を深めて世界経済から切り離されてどんどん苦しくなっていく戦前日本と西側の資本主義経済の世界の一員として生きていくことを決めてその中で繁栄していく日本とを比較するのは前提条件としてあまりにも違いすぎるのだが。

2013年8月28日水曜日

Langenscheidt Universal Dictionary Germanを買いました


今回、買ったのは、Langenscheidt Universal Dictionary Germanです。
独英/英独辞典でサイズは、縦横は文庫本のおよそ半分、厚さは薄めの文庫本2冊分くらいかなぁ。
かなり(届いた時にあまりに小さくて驚くくらいには)小さいくて、ポケットに入れて歩ける感じです。(実際、歩いてます。)

独和辞典は当然(?)、持ってるんですが、和独を持ってなかったので、先述の通りサイズも小さいし、安いし、で買ってみました。

使用感といっても、まだ、購入日を含めて2日なので、まだ手に馴染んですらいない感じなのですが、とても好感触です。

黒と青の二色刷りなんですが、赤が見分けづらい中程度の色弱者にとっては赤より青のほうが見分けやすくてとても嬉しい限りです。

Amazon.co.jpのレビューでは「辞書というより単語帳」というものがありましたが、基本的に全くそのとおりです。
ただ、「英語なら、こう表現する『あれ』」と『あれ』が浮かぶのであれば、英独辞書としてはかなり限定的ではありますが、ある程度、使えると思います。
独英辞書としては表現の組み合わせについては当然ですが紙幅の関係上、基本的なものに限られています。小難しい文章は厳しそうですが、ドイツ語版Wikipediaの記事くらいの比較的平易な文章ならこれで読めなくはないかな、という印象です。

このサイズで独英/英独を兼ねてて、しかも街で「これってなんて言うんだろ?」と思ったものを引いてみたら大体出てくる、というのはすぐれものだと思います。
価格も安いので、ボロボロになるまで引き倒そうと思います。

以下、個人メモも兼ねて。

ドイツ語講座の先生(=学部2回の購読の授業の先生=研究室の先輩)に「ドイツ語の単語力がついてきたらこんなのもおすすめだよ」と言われたのが、Langenscheidt Großwöterbuch Deutsch als Fremdspracheで、ここからの芋づる式というかいろいろ調べて今回のこの辞書に行き着いたわけですが、管見の限りでは、こいつがこのシリーズで一番大きい辞書で、次いでLangenscheidt Powerwöterbuch DeutschLangenscheidt Taschewöterbuch Deutsch als Fremdspracheと収録単語数が減っていくようです。

うん、書いててややこしくなった。

てことで、画像の方も不等号付きで一応貼っておきます。

  > 

とりあえず、Amazon.co.jpの表記、間違ってると思うねん。

2013年8月17日土曜日

USBメモリでRAID0(ベンチマーク結果の画像つき)

カッとなってやった。

4GBなUSBメモリx2でRAID0をmdで構築してみました。

構築方法は次の通り

sudo mdadm -C /dev/md100 -l0 -n2 /dev/(USBメモリ1本目) /dev/(USBメモリ2本目)

USBメモリ単体でのベンチマーク結果


うむ、同時購入した同じ種類の2本なんだけど、くたびれ方が違うのか、書き込み速度が全然違う……

mdでRAID0組んだ場合のベンチマーク結果


読み込み速度は倍になったけど、書き込みはよりくたびれた(?)方のメモリが足を引っ張ってるみたい。
実用性はほぼゼロw

2013年8月10日土曜日

映画『つぐない』感想

フェリシティ・ジョーンズ→映画『ノーサンガー・アベイ』→ジェーン・オースティン→『高慢と偏見』→映画『プライドと偏見』→ジョー・ライト→映画『つぐない』
と連想ゲームで随分遠いところまで来たなという感が半端ないが、前から気になっていた映画ではあった。


いい映画だったのでお勧めです。単純な人間なので泣いた。
原作の翻訳もあるようなので、読みたくなった。ご覧になるお気持ちがありましたら、以下は読まないでください。
















偶然と偶然が重なり、そこに若干の屈折した感情が加わり、取り返しのつかない結果となる。
もちろん、この映画(とその原作となった小説)はフィクションである。
だが、その重大な結果を及ぼした要因どれも、現実でもありうることだな、と思う。

13歳の少女は恋愛というのを分かっていたし、分かっていなかったんだろうな、と思う。自分が同じ年齢であの立場だったらどうだろう?偽証までするかはわからないが、少なくとも同じ感情、「嫌悪感」と表現すればいいのか、一方、踏み込んで「不潔感」と言ってもいいのかもしれない、とにかく、あの感情は抱いただろうなと思った。

その少女は老女となり、ことのあらましを本にするが、1箇所だけ、フィクションが含まれている。
あのフィクションはどうなんだろうなぁ。本人は「せめて小説の中だけでも2人の時間を」という趣旨のことを言っているけど。
少なくとも、本に書いたようになっていれば、彼女の苦しみも幾分かは軽くなったろうとは思う。う〜ん。

2013年8月9日金曜日

『戦闘技術の歴史4 ナポレオンの時代編』レビュー

翻訳がひどいの一言に尽きる。

序盤から語訳が怪しいところがあって「原語表記しろよ」って思っていたが、海軍の章がとてつもなくひどかった。
端的に言えば、原語はcaptainと思われる語が「大尉」と訳されていて(captainを「大尉」と訳すのは陸軍の場合で、海軍の場合は「大佐」だし、おそらくこの時代のこの文脈では「艦長」が適切)、最初は「ウィロビー大佐」と訳されていたのに、次のページでは「ウィロビー大尉」となっていて、captainの訳をミスってるな、と気づくまで、この2つの人名が同一人物を指すということに気付かず、読んでて大混乱に陥った。
「彼(ウィロビー「大尉」)は大尉を[...]送り出し、[...]伝えさせた」って部分、「大尉が大尉を送り出し伝えさせた」ってまぁ、先任順とかでなきにしも非ずとはいえ、読んでておかしいって思うでしょ。
あと、戦闘図で「イギリス軍艦インフィジェニア」と言った舌の根の乾かぬうちに、「インフィジェニアの司令官アンリ・ランベール海軍大佐」って、司令官の名前をフランス人名風に訳してしまってたり(正しくは、「ヘンリー・ランバート海軍大佐」だろう。彼がフランス出身のイギリス海軍将校でない限りは)。

語訳のおかしさもさることながら、全体的な翻訳も直訳調で、「日本語訳」としての理解を妨げる。(「艦載砲はきわめて遠くまで球形弾を飛ばして、敵艦の骨組みを砕いて何千もの破片にすることができた。」という翻訳は、私には、仕事を放棄してるようにしか見えなかった。)

おそらく、原文がこういうやたらと「派手」で「回りくどい」表現を使っていて翻訳が難しいところだったとは思う。だけど、プロの翻訳家である以上、「日本語で読む読者のため」と理解を妨げるような表現は大胆にカットしてほしかった。Amazon.co.jpのカネゴンさんのレビュー(この方とはその昔、某掲示板でお見かけした記憶がある)の「翻訳者は内容を理解できていないのではないだろうか?」という言葉がかなりの説得力を持つくらいには直訳にすぎる翻訳だったし、監訳者も仕事をしてないと言っていいと思う。

日本語訳のほうが安いわけでもないので、今から読むなら、原著を購入されて読むことをお勧めしたい。私は、どうしようかな……。そのうち。





追記:
これは和んだ。

2013年8月4日日曜日

映画「今日、キミに会えたら」(原題'Like Crazy')の感想[ネタバレ含む]



フェリシティ・ジョーンズのかわいさに惹かれて借りてきました、「今日、キミに会えたら」(原題'Like Crazy')。


以下、感想をつらつら書きます(ネタバレ注意)














フェリシティ・ジョーンズは超かわいかったですよ。
メイクもどちらかというと、あまり好きじゃない、というか、いいと思えない、バチバチな感じではなくナチュラルメイクな感じだったし。
フェリシティ・ジョーンズはかわいかった。

まず、開始早々、フェリシティ・ジョーンズ演じるアンナとヤコブセンじゃなくてジェイコブが恋仲になるんですが、お互いにどこにどう惹かれてひっついたのか、という描写はほぼなく、3分クッキングで言うなら「冷蔵庫で3時間冷やしておいたものがこちらです」状態。
「この映画のテーマは『遠距離恋愛』だし、それまでのプロセスを省くってのはまぁ?まぁ?ありかな」という感じでとりあえず納得しながら進めて行ったわけですが、この部分の丁寧な描写を欠いたために、肝心のテーマに感情移入できなかった感が否めないです。
端的に言えば「そんなに辛い思いまでしてこだわってるけど、この男のどこがいいの?※」

そもそも、遠距離恋愛の理由(というか、それを長引かせる理由)が完全に自業自得で、「いっしょに居たいから、就学ビザ切れるけど、アメリカに残るぅ〜。また来る時のビザはなんとかなるっしょ」って不法滞在した結果、アンナにビザが下りなくなったというもの。
就労ビザの取得がかなり難しいのは言ってるし、実際、そうなんだろうけど、そこは、ヤコブセン、じゃなくてジェイコブ、それをオファーしたアンナにNoと言うべきだっただろう。

とまぁ、「自業自得やん」という言葉を頭の中に反響させながら、さらに進めて行くわけですが、弁護士に「結婚して配偶者ビザを取得すれば、不法滞在の件は不問になる」的なことを言われて、2人は結婚するんですが、アメリカの入国管理局の配偶者ビザ担当の人に「学生ビザの違反については、そちらで解除されないとこちらではどうしようもできない」と蹴られる始末。
「弁護士、仕事しろ!!!」だし、「配偶者ビザなんてあんのかよ!!!なら、不法滞在とか無理せんで良かったんちゃうん」とやっぱり自業自得感が強まる。

さてさて、一緒に暮らせるわけでもないのに、結婚だけはしてしまった、お二人、人肌の恋しさは拭いがたく、現地夫・現地妻を抱え込むことになります。まぁ、どちらの方も、相手が複雑な事情を抱えてることは承知の上なので、その点は差し引いて観る必要がありますが、正直、主人公たちよりもこの2人の方がかわいそうでならない。
特に、アンナの両親の前で「問題があるのは分かっていますが、彼女が必要なんです」とプロポーズまでした現地夫・サイモンが超かわいそう。なんてったって、その直後にアンナにビザが下りて、「やっぱり、私、あっちにいくー」ですからね。

とまぁ、いろいろ書きましたが、個々の描写は良かったんじゃないのかなと思います。

主人公たちの使う携帯電話がとてもいい小道具として働いていて、最初はパカパカ携帯だったのが、最後はアイフォーンになっていて、2人の唯一の「つながる」ための道具という事も加わり、時の流れをうまく表現していたと思います。「時間の経過だって表現することが出来る。そう、アイフォーンならね。」
あと、ヤコブセン、じゃなくて、ジェイコブのそもそも危うかった髪が更に危うくなるのもリアリティありましたね。

アンナのもとにサイモンがなんか謎の電磁調理器具を返しに来るシーンがあるんですが、そこのヤコブセン、じゃなくて、ジェイコブ目線のカメラアングルは良かったです。
「なんで、想い合ってる自分たちは(物理的)接触が難しいのに、何の関係もない奴が簡単にこなすんだ」って。

2人が喧嘩するシーンも良かった。2人が離れがたいほど愛し合ってる、というのには、ほとんどリアリティを感じなかったですけど、喧嘩はとてもリアリティがありましたね。
「サイモンか!あいつと寝たのか!」ってのサイコーでした。言われてしまったがゆえにそうなるあたり、「予言の自己成就」っていう言葉が頭をよぎりました。

アンナとヤコブセン、じゃなくて、ジェイコブとの間ではそうでなかったのに対し、主人公たちとそれぞれの現地夫・現地妻との間には、比較的、明示的なセックスシーンがあったのは、「結婚してるのに」と観ている側に想起させる上で、それなりに効果的だったと思います。

とまぁ、ツッコミどころ、良かったところはこんな感じなのですが、全体的な感想は、「この映画は今、付き合ってる人がいる人向けの映画なんだろうな」です。特に、すでに遠距離恋愛してる人とかかな。
とりわけ、主人公間の結びつきの強さですが、そういうのをいちいち描写されなくても、今の自分の抱える関係と重ねあわせて「あ〜、分かる分かる」と思えないと、「いい映画だった」とは感じられないのだろうと思います。

少なくとも私に関して言えば、「自業自得やんw」と冷静かつ理性的にツッコミを入れられるあたり、それほどまでに感情を込められる相手がいないということの証左なのでしょう。まぁ、ぽぽさんの場合、そういう人がいてもやっぱり、その人のこと考えたら、今とおんなじ反応する可能性が高いですけど。
逆に言えば、「不法滞在で過ごした数ヶ月が彼らにとって一番幸せな時間だったのかな」と考えられなくもないですが、私は生き急ぎてる感があって嫌ですね。

だから、制作サイド意図はさておき、私は、この映画のエンドはハッピーエンドに見せかけたバッドエンドだと思いました。
「いろいろあったけど、一緒になれてよかったね」となるには、やはり、最初に戻って、主人公たちがどこにどう惹かれあったのか、という描写が圧倒的に足りないです。

だって、ヤコブセンよりサイモンの方が絶対いでしょ※

(※完全にフェリシティ・ジョーンズの側に立ったコメント)









2013年7月29日月曜日

歩兵方陣vs(重)騎兵突撃についての引用

引用元: 『戦闘技術の歴史 4 ナポレオンの時代編 AD1792-AD1815』 p.171
([]内は引用者による注)

カトル・ブラ[の戦い]は、騎兵の強さと弱さの両面をはっきりと示す事例だ。しかし、カトル・ブラ、そしてその後のワーテルローで、フランス胸甲騎兵の襲撃を持ちこたえた強靭なイギリス方陣のイメージは、すべての歩兵大隊は方陣を組むべきで、方陣は騎兵攻撃に耐えられるという誤った印象を与えてしまう。これは、明らかに間違った考え方だ。イギリス連隊がカトル・ブラで組んだ方陣を、当時の標準的な方陣と考えてはいけない。ナポレオン戦争の時のイギリス歩兵は、当時の最強歩兵だった。彼らの指揮と訓練はほかに類を見ないもので、頑強に陣地を守るという彼らの評判が、カトル・ブラでの素晴らしい防御で充分に証明されている。
実際に、ナポレオン戦争のあいだ、フランス騎兵も同盟国側の騎兵も、歩兵の方陣を崩している。単にある隊形を組むだけでは、騎兵攻撃を撃退することはできない。頑健な精神に並外れた訓練、冷静な勇気がなければ、押し寄せてくる重騎兵の攻撃を前にして、歩兵方陣を断固として持ちこたえることはできない。そして、そのすべてがあっても、部隊が圧倒されることもあった。つまり、イギリス歩兵がカトル・ブラ、そしてその後ワーテルローで成し遂げたことは、とてつもない偉業だったと認識しなければならないのだ。

2013年4月22日月曜日

しろろさんぼっとの最新版ソースコードを公開しました。

しろろさんぼっとの最新版ソースコードを公開しました。
『リーダブルコード』影響を受けてコードの全面的な見直し・書き直しを行ったほか、本家ツイートのRT機能を追加し、初期設定を簡易化するためのスクリプト(setup.py)を書いて、同梱しました。

説明書きのindex.htmlがまだ不十分な気がしていますが、ぼっとの設定・展開・運用が容易になったと信じています。

ライセンス:MITライセンス

ダウンロードはこちらから
http://ubuntuone.com/4K7bG6TUhbrjv2f4ZDPR2n


2013年3月17日日曜日

ドイツ語練習帳(日記)

Gestern besuchte ich die Ikko Tanakas Ausstellung in Nara.
Dort sah ich deutschen Posters, aber kann ich nicht alle Information darauf lesen.
Ich möchte Deutsch mehr verstehen.

2013年3月15日金曜日

GNOMEの翻訳をやってみました〜Launchpad(Ubuntu)での翻訳と比較してみての感想〜

GNOMEで翻訳をやってみました。
記憶が薄れないうちに。その感想兼備忘録兼伝達用途です。

経緯

Launchpad(以下、Lp)でRhythmboxの修正翻訳をサジェストして、レビューをお願いしたところ、そのサジェスチョンが採用されたのですが、おかのさん(@okano_t)からついでに「上流=GN0OME側にも投げてくれませんか」ということで、いい機会なのでやってみました。

私の立場

  • Lp(Ubuntu側)でしか翻訳はやったことがなかった。
    • 当然(威張ることではないですが)、poはいじったことがない。
    • 上流での作業に興味自体はあった。経験はなかった。
  • Ubuntuを使い出したのは10.04から。
  • Lpで翻訳に本腰を入れ始めたのは11.04くらいの頃だったと記憶。
  • 12.10のあとにUbuntu Translatorのメンバーに入れていただきました。

Lpでの翻訳についての感想(GNOME側での作業以前)

  • 翻訳1つからできるので気楽
  • 特にこだわらなければ、採用されるかリジェクトされるかなので気楽
  • 一方、こだわり出すと「こうだからこうした」というコミュニケーションの場がLp自体には事実上ない(?)ので不満
    • Twitterでやり取りしてもいいのだけど、他の方々は忙しそうだったりするので少々憚られることも

GNOMEでの翻訳(ミスとかいろいろひっくるめて)

  • 当初、目標としていた翻訳ミスの修正はそつなくこなしました。
  • せっかくなので珍しいものを眺めるようにぺらぺら〜とpoファイルを眺めてたら、fuzzyって付いてるところのアクセラレーターが違ってたり、原文ではないのについてたりとおかしい(伏線1)ってことでそれも直してみることに。
  • fuzzyなところ、アクセラレーターだけじゃなくて、翻訳もおかしくね?(伏線2)ってことで気づいたところの翻訳も直しました。
  • poをアップロードしたところ、おかしいところがあるってかずけんさん(@kazken3)からご指摘頂いたので、見てみたら、アクセラレーターだけ直して(伏線1')、原文と翻訳が一致してない(伏線2')というのをポロポロ発見しましたので、修正の上、再度、アップロード。
    • 伏線1/2/1'/2'…要はfuzzyの意味とか取り扱いとかがわかってなかったということです。
  • 再度のレビューを経たのち、コミッターの松澤さんから「ここはこうだから、こうしてください」という指示を頂いたので、それに従う形で修正し再度アップロード
  • コミット待ち?←イマココ!

GNOMEでの翻訳についての感想(と反省)

  • こちらでの作法を知らなくて苦労しました(反省)
    • おかのさんから、GNOMEでの翻訳についての記事がうぶまがのサイトにあって公開されてるよ、と教えていただきました。最初に読むべきでした
    • poを触ったことないとか、GNOMEで作業やったことないとか、自分のスキルについてはおかのさんやかずけんさんには最初にきちんとお伝えすべきでした
  • Twitterとか別の場所ではなく、同じ場所でコメントをいただけるのはやはり便利だなと思いました
  • 対訳表があるのは便利だと思いました
  • ですが、一方で、「ツールチップはユーザーに説明するように敬体で」というご指摘を頂いたのですが、知らなかったです……。どこかに書いてあるんでしょうか……。初めてなのでどこに何が書いてあるのかわからn(絶命
  • GNOMEでの翻訳は1つからでもOKとなっていますが、個人的な感想ですが、翻訳する側としては1つからってのはちょっと気が引ける
    • レビューする側からすると、数が多いのはしんどそうと思いました

Lp/Ubuntu側での翻訳についての感想(今)

  • 1つからでも翻訳OKが文字通りやりやすいように思いました(個人のかんs(ry)
    • Lpでやりとりできないのは先述の通り不満ですが、一方で、これはそのおかげなのかな、など
  • レビューも1つずつできるのは楽だと思います
  • 上流に反映させることが推奨されてますが、その誘導が不十分なように思いました
    • 現に私は迷子になりました(地図もコンパスもろくに見てない自業自得感はありますが)
    • いろんなアプリとかを網羅するのは難しいとは思うのですが、もにょもにょ
  • Webで完結するのはいいですね

まとめ

総合的に見て、Lpの方が気楽だなって思いました。慣れが占める部分が大きいのかもしれませんが。「翻訳やってみたいんだけど」という人がいたとして、私ならこちらを勧めると思います。一方、上流で翻訳するほうがUbuntuのみならず他のディストリにも貢献できるので、こちらでの活動も増やしていきたいとは思います[要精進]。
ご覧になる方によっては、「新参者のくせに」とか「自分の勉強不足だろ」とか「お前に言われなくてもわかってるよ」とかいろいろ言われそうなことを書いたような気もしますが、初心者だから、と温かい目で見てただければ嬉しいです。

2013年3月5日火曜日

最近観た第二次世界大戦関係の感想

この2週間で立て続けに3本の第二次世界大戦関係の映画を観ました。

  

制作年代順と観た順がたまたま一致してました。

  1. 遠すぎた橋(1977年)
  2. プライベート・ライアン(1998年)
  3. ワルキューレ(2008年)
ベースとなる出来事順に並べ替えるとこんな感じです。
  1. プライベート・ライアン(オーバーロード作戦)
  2. ワルキューレ(7月20日)
  3. 遠すぎた橋(マーケット・ガーデン作戦)
結論から言えば、個人的な関心の持ちようもありますが、私は遠すぎた橋が一番良かったなと思います。どれも良かったとは思うけど。(あ、あんまり、映画は観ない方です。)
内容を思い返す感じで、最近観た順にいろいろ書いてみたいと思います。

『ワルキューレ』は、うん、どういう内容か、ある程度、細かいところまで知ってたので、「映像化されるとこうなるかぁ〜」的な上から目線の感じで観ました。
内容は、題材となるヒトラー暗殺計画自体が小説みたいな感じなので、そりゃ面白いよね、が率直な感想。
配役はう〜んって感が否めませんでしたね。伯爵クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクとその副官のヴェルナー・フォン・ヘフテンはいいとして、「私のトレスコウを返して!」「オルブリヒト、歳行きすぎだろ」「フロムはもっと痩せてるでしょ」って言いたかったです。いや、まだ、この3人は分かったからいいものの、クウィルンハイムは最後までわからなかった(途中で言ってたかな……)。「そうか、お前がレーマーだったのか……」だし。
ポジティブに解釈するなら、皆が皆知ってる人ばかりではないから、個人名はあまり出さないようにして、特徴的な配役で代替してるのかなっていう印象。
まぁ、配役については、勝手に知ってるだけだしってことで目を瞑るとしても、かなり興が削がれたのは、英語で喋ってることですかね。「ワルキューレ作戦」を伯爵クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルクがタイプさせるシーンを始め、口で英語を喋りながら、ドイツ語で紙にタイプされるってのはかなりシュールなものがありますね。
総括すると、個人的にはいろいろと知ってしまってるので、う〜んという感じですが、「初見だったら」という仮定に立つとそこそこ良かったのでは。初見の方はぜひとも、そのまま、この映画をご覧になって、そのあと、いろいろ知った上で、もう一度ご覧になると、どういう感想の変化が生じるのか知りたいところであります。あ、でも、初見で分かるストーリーなのかな……、という疑問も。

Further reading:

『プライベート・ライアン』は、見せる映画だなぁって一言に尽きると思います。しょっぱなから「オマハビーチ」とか出てきて、「あぁ……」って感じで覚悟固めた感じでしたが、凄惨な戦闘シーン(なんかこの表現は「閑静な住宅街」に通じる違和感がありますが)は、見事なカメラワークや仕掛け(グロ注意)など、さすがスピルバーグと言ったところ。
これらの描写の巧みさもさることながら、フィクションならではのストーリー展開も良かったと思います。
ノルマンディー上陸に際しては、降伏したドイツ兵を射殺して、ジョークを言い合うアメリカ兵に対して観客に嫌悪感を抱かせておきながら、最後はチームで唯一の"我らが"パンピー代表ことアパムと同じ感情を抱かせる。そうして、戦争の中の人間の心のあり方をえぐり出すってストーリーね。
チームで唯一の"我らが"パンピー代表ことアパムには劇中、何度も危なっかしいなとか、イライラさせられるシーンがありますが、まぁ、パンピーが放り込まれたらそうなりますわな。そういう意味でも、彼は"我らが"パンピー代表なんでしょうね。
私としては、ライアンだけ助かり、橋も奪われ、みたいなエンドの方が不条理感高まってよかったんですが、そこはアメリカンストーリーかな。
見応えはある映画だったんだけど、個人的には『遠すぎた橋』には勝てないかなという感じが否めませんでした。理由は後ほど。

最後に『遠すぎた橋』
正直言って、わかりにくいので2回観るのをおすすめします。(あるいは、事前にWikipediaの「マーケット・ガーデン作戦」の項目をご覧になるなど)
3つの空挺師団と1つの空挺旅団、1つの地上部隊が7つの橋をめぐってドイツ軍と戦うので視点がコロコロ移るし、地図がはっきり出るわけでもないので、よくわからない。加えて、出てくるおっさんたちの顔が濃すぎ&薄汚れてるのダブルパンチでわかりにくさに拍車を掛けてます(※個人の感想)。
『ワルキューレ』とは対照的に、登場する実在の人物についてはほとんど知らないので、「ギャビン准将かっこいい〜」とか「ロバート・レッドフォード若い〜」とか言いながら観てました。
『プライベート・ライアン』のクライマックスようなものも無ければ、『ワルキューレ』のようなドキドキハラハラ感もなく、淡々と話が進むわけですが、個人的にはそこが良かったです。徹底的に実話ベース。特典DVD観てると、えっ、これも実話なの?ってなります。あと、ドイツ軍はちゃんとドイツ語で喋りますしw
テーマ曲のマーチがまた素晴らしいです。
主に焦点が当たっていたのが尉官以下の前線部隊だった『プライベート・ライアン』に引換え、『遠すぎた橋』では、佐官以上の高級将校にそれが当てられてたのも良かったです。私個人の関心が軍の指揮や命令系統、組織といったものにあるということを再認識した次第ですが、前者のような作品だと、"我らが"パンピー代表なアパムがああなるような非日常な部分にスポットが当たりますが、この作品だと、「組織とは」といった主題に還元されうるように思いました(Amazonのレビューでも散見)。
また、軍の上層部の非(無能?驕り?つまらない競争心?見栄?)を告発する作品ように私は思いました。救いのない幕引きです。さっき述べた通り、淡々と流れるだけ。自分が歴史をやってるってのもあるんでしょうか、そういうのがしっくりくるんです。
77年公開というのにも注目したいですね。

まぁ、いろいろ書きましたが、どれも一長一短ありますが、どれもいい映画だったように思います。

2013年1月28日月曜日

絵・写真にキャプションを付ける遊び(1)

その昔、地元の図書館で借りた『知の歴史 ―ビジュアル版 哲学入門―』という本をとても気に入っていて、購入したいくらいなのですが、今や絶版という代物。
それはともかく、この本の素敵なところはビジュアル版ということだけあり、写真や絵画が豊富に使われていているのですが、そのキャプションがとても好きです。
例えばこんな感じ。

「人生を徹底して生きようとすると,人は争いに巻き込まれる。しかしニーチェによると,争いの中にある緊張感が,指導者としての力を最大限に引き出し,その能力をさらに高めてくれるのだった。この絵はフランス軍兵士が1806年のイェーナの戦いでプロシアの旗を奪い,凱歌を上げている姿である。」


この写真の使い方とキャプションをつけるセンス見習いたいと思ったので、似せて自分もこれからちょいちょい書いて見ることにしたいと思いました。

(1)Battle of Hohenfriedberg, Attack of the Prussian Infantry , by Carl Röchling. を使って
プブリウス・シルスは「常に人間は、自分に対してはあることを考え、他人に対しては他のことを考える。人間は他人を判断するのとは異なったように自分を判断する」と記した。この絵画はオーストリア継承戦争のホーエンフリートベルクの戦いで敵に向かって前進するプロイセン軍歩兵の戦列を描いたものだが、兵士は両隣の戦友が敵弾に倒れることは考えても、自らが倒れることはないと考えているだろう。

2013年1月14日月曜日

風呂の湯気

お風呂が湧いて一番で浴室に入ると、お風呂の湯気で室内があふれている。暖かそう。
しばらく湯船に浸かっていると、湯気が引いてしまって、なんだか寒い。

ってこれよく考えるとあれですよね、飽和水蒸気量の話ですよね。
湯気が引いちゃうのは浴室内の温度が上がったから、それに伴って飽和水蒸気量が増加して、目に見えるサイズを維持できない的な話。

体感として寒くなってたのは、体温が室温以上に上がってたから。

という、中学理科のお話。