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2013年1月14日月曜日

風呂の湯気

お風呂が湧いて一番で浴室に入ると、お風呂の湯気で室内があふれている。暖かそう。
しばらく湯船に浸かっていると、湯気が引いてしまって、なんだか寒い。

ってこれよく考えるとあれですよね、飽和水蒸気量の話ですよね。
湯気が引いちゃうのは浴室内の温度が上がったから、それに伴って飽和水蒸気量が増加して、目に見えるサイズを維持できない的な話。

体感として寒くなってたのは、体温が室温以上に上がってたから。

という、中学理科のお話。

2012年10月6日土曜日

今日たまたま見た某Twitterアカウントのツイートにより触発されたところの所感

思ったことがあったので雑記。今までいろいろツイートしてきたことのまとめも兼ねて。
(以下の文章は個人の感想です。)

Twitterでアカウントを取得して、広報を行なっている学生団体はそこそこ見受けられるように思う。
そういう系統のアカウントはあまりフォローしないので、成果を上げているところが多いのか、すくないのかの判断は難しい。

が、私の見た限りで成果の上がってなさそうな学生団体アカウントが少なくともいくつかは存在するので、いろいろ雑考したほどを記してみようと思う(これ読んだ関係者は気づけ。)

Twitterへの参入障壁はほぼ無に等しい。インターネット回線1本と有効なメールアドレスが1つとがあればアカウントの取得自体は簡単に出来る。メールアドレスはG社とかY社とかのフリーメールを使えば無償だし、インターネット回線もすでに保持しているのならば追加費用はゼロ。だからこそ、資金のない学生団体には非常に魅力的な宣伝媒体に見える。
しかし、当然のことながら、宣伝媒体として有効に活用できるかはここからにかかっている。

結論から言えば、Twitterでの宣伝行為(知ってもらう、キャンペーンを告知する、既存のユーザーにより好きになってもらう、その他もろもろ含めてこう記そうと思う)には「お金はかからないかもしれないがコストはかかる」ということである。
比較的宣伝行為に成功している(した)と(個人的に)思う企業アカウントがあるので紹介したい。

BEER to friends
天下のKIRINさんが行った新商品アピールのためのアカウント。9月に2万本、10月に5万本を抽選でばら撒くという太っ腹ぶり(230[円/本]x7万[本]=1610万円分)。
デル株式会社
「デルで買ったプリンターが調子悪いんだけど」とつぶやこうものなら「申し訳ございません。うんたらかんたら」というリプが来る感じのアカウント。
トランセンドジャパン
前にざっくばらんなツイートをなさってお茶の間を騒がせたアカウント。「ありがとらんせんど」など明日から使いたくなる言い回しばかり。
信長書店公式アカウント
なんか、あれな書店ですが、ツイート内容は至って普通。細かくリプを投げてくるなど、こちらもフォロワー1人1人を大切にしてらっしゃるんだなぁという印象が強くて高好感度。

とまぁ、ご覧になれば同意していただけるのではないかと思うが、ビールのアカウントはもろモノ=金銭コストで釣ってるけど、他の3つはそれなりに、手間=コストかけてるように私は思う。

さて、翻って私が念頭においてるアカウントたち……うーん……。作りっぱなし感が半端ないし、言いっぱなしの投げっぱなしなツイートが多いなぁ。というか、ツイート自体すくないわ、みたいな。関連ワードでツイートの検索かけたら、結構引っかかるのに取りこぼしてて、「絡んでいけよ!!!」って思うこともしばしば。双方向性を活かした使い方しないなら、他の手段を考えた方がいい。Twitterは団体内の告知用メーリングリストと違いますよ〜。
(MLを告知用途で使うってのがそもそも個人的には疑問だけど)
元から知名度のある大企業とかだとそれもまぁ、いいと思うけど(元から知名度がある企業や某政治家でそういうTwitterの使い方してるとそれはそれでどうかなぁみたいなのあるけど)。

Twitterを宣伝媒体としてみた場合、イメージとしてはGoogleのPageRankに近いんではなかろうかと思う。Twitterでより大きな宣伝効果を求めるならば、自分のフォロワーを増やすか、フォロワーの多いアカウントの力を借りる(RTされる)か、くらいしかないと思う。(他にもあるかもしれないけど。)

ま、なんか、いろいろ書いたけど(だんだん面倒くさくなってきた←)、担当を1人付けるでも持ち回りでツイートするでも何でもいいけど、そのアカウントでツイ廃を1人作るくらいの勢い(あくまで「勢い」)でTwitterに向かわないと、宣伝効果ないよ、たぶん。自分とこの団体名・媒体名でエゴサーチかけて絡むとか、何か配布するなら配布予定地で検索かけて、「配るからヨロシク!」とメンション投げるとか。
宣伝する気がないなら別に構わないけど、それなら中途半端にアカウントなんて持つべきじゃないと思う。
ほら、2ヶ月前にもらったリプ今頃返してるでしょ?
作って放置気味だと、「活発じゃないんだな」って印象持たれて逆にイメージ悪くなる。
botをグダグダ〜って回すのは最悪だと思う。何したいのかわからん。

2012年9月28日金曜日

カツカレーは3500円でございます

3500円のカツカレー美味しそうです。食べてみたいです。

「安倍さんが現担ぎで食べたカツカレーが3500円で庶民感覚がない」と山中アナが発言したとのことで、ちちんぷいぷいを放映するMBSが叩かれてますが、その件について、ちょっと思うことがあるので、書いてみまする。
あのコメントに対して、同番組がどういう趣旨の番組か、理解している人(主に大阪中心とした関西人)と理解していない人とで評価にかなりの温度差がるように感じられました。
観たことある人はだいたいわかってもらえると思うんですが、あの番組、ちょう緩いんですね。あと、ちょう地元密着型(主に大阪に)。中川家の「大阪おばちゃんあるある」を集めたような番組と思ってもらえればいいと思います(個人の感想です(ry)。
関西ローカルですし、どういう人が観てるかを強く意識した番組です。中継とかでもすぐに値段を聞く(大阪あるある)。

でまぁ、ちちんぷいぷい的には「庶民感覚がない」って批判したわけじゃないんだよって私は思うわけですが、そこはあえてスルーさせて頂きます。だいたいこれにまとめられてますし。

じゃあ、何が言いたいかと言いますと、だんだん、同番組に対する批判が「地域文化の否定」に見えてきたんですね。
ここからかなり主観が入ります。
上記のようにちょう緩いちちんぷいぷい制作サイドと(「近畿の」)視聴者との間では一種の合意形成がなされているわけです(10年以上放映されてるわけですから)。
また、たとえそれが国政政治の話でもニッチな話題を求めていくというのがこれまでずっと維持されてきた同番組のスタンスなわけです。
(土曜日に「せやねん」という番組があるんですが、これも同じようなスタンスで、この番組かどっちかで「選挙活動で使う意外なアレのお値段」とかやってました。)

まぁ、グダグダ書いても仕方ないのでまとめますと、同番組を観つけてる視聴者はどういう番組かよぉく知ってるますし、彼らの知りたいことを教えてくれるんです。というか、観てなくても放映されるエリアの人で時間帯的に視聴可能な人は、よく知ってると思います。知った上で観ない人はたくさんいると思いますが。

さて、本題に近づくわけですが、こうしてみると同番組はいわゆる(大阪を中心とする)関西の文化を体現していると考えられるわけです。というか、可能性のレベルじゃなくておそらくそうでしょう。大阪あるあるな暗黙のルールに乗っかった会話の一種、とも言えましょう。[1]
それを同番組を普段から観てない人に批判されるというのはどうでしょう?立派な文化否定に見えます。特にYouTubeで「そこだけ」観れるという環境で観た上でそういう発言をされると。

彼の発言は「カツカレーの値段を3500円以下と答えた皆さんは庶民ですね」と言っただけで、安倍氏に庶民感覚がないと言ったわけじゃないです。いやだって、国会議員は庶民じゃないですもん。
確かに、動画を観る限り、値段を聞いて、やすえ姉さんたちが絶句するってのはありますけど、そりゃそうですよ。大阪だったらたぶん、ホテルで食べてもそんな値段しませんもん。妹の友人が東京に行った際、「いろはすが300円してた」って聞いて私も絶句しました。東京って物価がすごく高いんですね。やすえ姉さんの「誰が払うんやろ?」が安倍氏に批判的コメント?いやいや、関西人としてはすごく気になります!

とまぁ、ちょっと逸れましたが、そういう文化的基盤の違いを見ないであのコメントをあのように批判されるのは少なくとも私は心外です。そんなに「『儲かりまっか?』『ぼちぼちでんなー』」の文化が嫌いですか?と言いたくもなります。

普段観ない人がYouTubeか何かで観たり、あるいは、観もしないで同番組のスタンスに批判的、否定的なコメントをする心情というのは、関西人の「行けもしない新宿や銀座のおすすめスポットを紹介する全国ネットの番組のコーナー」に対するいらだちとある意味、同根だと思います。[2]

途中で思考がこんがらがってる気がしますが、まあいいでしょう。ただの落書きです。ツッコミとかいらないです。

[1]
関東圏で放映される番組は非常に発言内容にある種の水準が求められるようですね。例えば、言いたいことを言えなくなるのを避けるために(本当に言いたい放題な)「たかじんのそこまで言って委員会」は関東圏進出だけは回避してます。ミヤネ屋は関西ローカルの時は宮根さんがきつめのツッコミ入れまくりの非常に面白い番組だったのに全国に行ったらつまらなくなりました(感想は(ry)。芸能リポーターのある方は関西ローカルの番組でジャニーズ関係の話題について「東京では言えません」と発言してらっしゃいました。
逆に言えば、放送規模が大きければ大きいほど汎用性が当然求められるという事です。

[2]
「ちい散歩などでお馴染みの地井武男さん」への関西人のクエスチョンマークの付きっぷりは次を参照。
http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/column/shinbou/news/20120710-OHO1T00150.htm

2012年1月22日日曜日

カルヴァン派予定運命説と勤勉さをゲーム理論で考える(仮)

@mearythindong さんとウェーバーのプロ倫じゃなくて、プロ資じゃなくて、Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismusで述べられているカルヴァン派の予定運命説ががむしゃらに頑張るしかないというのはどういうことかという話になってたんだけど、お風呂でちょっと考えてたら、これって、ゲーム理論じゃねとか思ったんで、Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismusもゲーム理論もかじった程度だけど、書いてみたいと思います。
プレイヤーとしてG(od)とH(uman)があるとして、
Gは
  • a:Hを救済すると運命付ける
  • b:Hを救済しないと運命付ける
の2つが選べる。
Hは
  • 1:がんばる
  • 2:がんばらない
の2つが選べるとする。
この時、2x2=4(通り)のパターンが存在する。
その上で以下のようにゲームのルールを設定する
  • GとHの状態で以下のように点数が設定される(表にすりゃいいんだろうけど、めんどい。)
    • G(a)かつH1のとき、Hは救済される方向に進む→+1
    • G(a)かつH2のとき、Hは自ら救済の道を絶ったので救済される方向からそれる→-1
    • G(b)かつH1のとき、Hが頑張れたのは別に神の恩寵なんて関係なかったんや→どのみちダメなんだし、-5
    • G(b)かつH2のとき、Hはどうしようもない→-5
      • ぶっちゃけ、マイナスの点数は適当につけたので訂正が必要かもしれない。
  • Gの決定はHの決定より先に行われ、Hから秘匿される
このとき、Gの状態に関係なく、H1=「Hが頑張る」がナッシュ均衡最適な選択になるんじゃないかと思うんですね。
GがHを救済しないって分かってたら、がんばってもがんばらなくても一緒じゃんってことになるけど、もしかしたらGは救済するって決定をしてるかもしれない。
じゃあ、Hとしては頑張るしかないんじゃん?的な。
どうでしょう。

【追記】
Gがaを選ぼうとbを選ぼうと、コストもベネフィットもゼロとするなら、H1はナッシュ均衡になりそうです。(下記、まとめ中の当該ツイート参照)

Twitterでのやりとりの記録(時系列のはず)
https://twitter.com/#!/mearythindong/status/160939128924553217
https://twitter.com/#!/_popopopoon_/status/160939608467705856
https://twitter.com/#!/mearythindong/status/160939729670504448
https://twitter.com/#!/_popopopoon_/status/160940265174081536
https://twitter.com/#!/mearythindong/status/160940486612357120

付随するツイートのtogetter上でのまとめ(@khuludさんにも編集に参加いただけました)
http://togetter.com/li/245978
【まとめたので、うえのリンクは削除】

2012年1月21日土曜日

『戦略の不条理』

レポートに使おうと思い本を借りに行ったら、批判的に読めて面白そうだったので『戦略の不条理』という本を手に取ることになった。(目的の本もちゃんと借りたよ)

本書のオリジナリティは、物質主義的なクラウゼヴィッツとその『戦争論』から、心理に重きをおいたリデルハートとその「間接アプローチ」を経て、新たにポパーを援用することで「知性的世界」という軸を戦略研究に導入することである。
要すれば、物理的世界(クラウゼヴィッツ)、心理的世界(リデルハート)に加え「知性的世界」を以て、3次元的に戦略を分析しようということだろう。筆者はこれを「キュービック・グランド・ストラテジー」と呼んでいる。
端的に言って、ここでいう「知性的世界」がいかなるものかというのはあまりよくわからなかった。ポパーの本は読んだことはないので、評価のしようがないのだが、その哲学を軍事戦略に援用する際に失敗しているという印象である。
そもそも、知性が軍事戦略において重要な位置を占めているというのは当然ではなかろうか。知性なくして戦争を戦おうと考えたものなどいるのだろうか?ここで引用されている、『孫子』にせよ、クラウゼヴィッツにせよ、リデルハートにせよ、彼らをして著作を書かしめたのは知性以外の何ものでもないはずだ。わざわざ、「知性的世界」を軸として取り出す理由が感じられなかったし、筆者の言う「知性的世界」は「世界観(Weltanschaunung)」や心理的世界、その他、既存の概念に取り込めるような気がした。
軍事戦略の1つの軸としての「知性的世界」で成功を収めた例としてロンメルがまず挙げられているが、ここで述べられているカメラを用いたイメージ戦略、小さい勝ちを重ねることによる彼我へのドイツ軍の強さのアピール、そして敵味方隔てない騎士道精神はそれとして解決していいのだろうか。そして、これを以て、ロンメルを「知性的世界への新しい間接アプローチ」の担い手とするのは先の理由より甚だ疑問である。少なくとも、M.V.クレフェルトの『補給戦』を読めば、北アフリカでのロンメルは補給の限界を無視して軍事的成果を求めて前進する(北アフリカのドイツ軍への補給のボトルネックは北アフリカでの後方連絡線の長さであったというのが結論)という、少なくとも補給に関しては洞察や知性を欠いていると評価せざるを得ない。
「知性的世界」で成功し、戦争に勝利した例が描かれていないのが、この本にあまり説得力をもたらしていない原因の1つであるように思う。「ロンメルは譲って、「知性的世界」で成功したとしましょう。で、北アフリカ戦線で勝利を収めたんですか?」となる。
ハンニバル、ナポレオン、孫子の戦略・思想が論じられている。
ハンニバルの例をとってみるならば、物理的・心理的世界に成功しながら、知性的世界に失敗したために、それに成功したローマに最終的には敗れるということになる。だが、最終的にローマが勝利したのは、物理的・心理的基礎体力と「粘り強さ」にあるとみるのが適切である(アルヴィン・H・バーンスタイン「戦士国家の戦略」『戦略の形成』)。ローマには数多くの将軍と無数の兵士がいるが、ハンニバルは1人でその軍はローマの人的資源に比べると貧弱なものだったのだ。
ナポレオンについても、ロシア遠征での失敗は「物理的世界を対象とする力による攻撃」に頼ったゆえに、ロシア軍の焦土作戦によって補給が苦しくなり坂を転げ落ちるように没落への道をたどったとなる。だが、またもや、M.V.クレフェルトによれば、ナポレオンはロシアでの補給の困難さについては予め理解し、対策を施していたという。結局、ロシア遠征(の少なくとも補給)が失敗したのは、馬匹による輸送という前近代的な輸送技術の問題ということになる。
『孫子』については、端的に言えば筆者は「これこそが、キュービック・グランド・ストラテジーだ」と主張している。これについては、「机上の空論でしかない」という反論が有効である。孫武が軍を指揮し、どういう成果を収めたかについては不明である。また、「戦いを徹底的に避けて勝利を収めること」を良しとする『孫子』の考えと「文化的に優位な文明が、文化的に下位の蛮族を従え、統治する」という儒教的な考えが合わさったとき、対北方民族の統治、さらには国家安全保障について悲劇的な結末をもたらすということはアーサー・ウォルドロンがこれまた、『戦略の形成』内で「14世紀から17世紀にかけての中国の戦略」で詳述しているところである。

終始一貫して思うのは、繰り返しになるが、既存の戦略研究がすでに知性に立脚しているということである。そして、ポパーからの援用である「知性的世界」は既存の分析概念で十分に対応可能であると思う。

また、本書における経営分野での話というのは軍事分野でのそれとは違って、比較的納得の行くものであった。それだけに、軍事分野の話の引っ掛かりというか納得の出来なさが目立ったように感じる。「キュービック・グランド・ストラテジー」にもあまり納得は行かなかったが、軍事思想に重きを置く考えは私はどうやら満足しないようだ。
私が一読する限り、「軍事戦略と経営戦略の大きく深い溝を埋める」という筆者の目論見は残念ながら成功を納めていないように思う。

以上が、今の私の思うところである。何か思いつけば、追記したいと思うし、間違っていると思えば、訂正もしたいと思う。

【追記】(同日)
書こうと思って忘れてたこと。結局、「戦略の不条理」を解消するためには、批判的にモノを見ようねっていう在り来りなこととだったのもなんだかな、という感じだった。



2011年9月27日火曜日

ズームイン朝のMCとジョッフル

ズームイン朝のMCは降板すると、フリーになる(退社する)。
一方、第一次世界大戦のフランス軍ではフランス陸軍最高司令官のジョッフルが元帥に昇格して、事実上更迭される。
なんとなく、似てるなぁ。

Wikipedia: ドライゼ銃

この新兵器は1848年からプロイセン軍で徐々に配備が始まり、1849年にドレスデンで発生した5月暴動の市街戦において初めてプロイセン軍によって実戦使用されたが、1848年のベルリン暴動で武器庫から多数が盗難されてしまったため、その機密が維持されていた時期は短かった。
プロイセンの台頭と共に、プロイセンと同盟した他のドイツ各州にも普及していったが、保守的だった多くの欧州諸国の陸軍は、ドライゼ銃の紙製薬莢にも後装式の優位性にほとんど理解を示さず、1860年代にプロシアが対外膨張へ転じるまでの長い期間、ドライゼ銃は過小評価され続けていた。
ナポレオン戦争以後、第一次世界大戦以前の軍の保守性というのはいろいろ耳にする(機関銃による濃密な火網の過小評価、決戦兵科としての騎兵の重視、その他もろもろ)ところであるが、この保守性とは他の時代と一線を画するものなのだろうか?
つまりは、この保守性は「他の時代と比べて」保守的である結果のか、そもそも、軍の保守的な「時代を越えた」ありかたが「世間一般に暴露される」ことになった結果のものなのかという疑問である。
前者については、
  • ナポレオンの登場のインパクト(そしてまた、それに対して勝利したという成功体験のインパクト)が強すぎた
後者については、
  • 軍というのが階級を持つものであり、概して年功序列であり、技術・方法論で大変革があると困る上の人が多いのはいつの時代も同じ
  • ナポレオン戦争以後の国民意識の高まり、新聞などの情報伝達手段の発達から、(よく知らないが、従軍記者などによって)軍にも透明性が生じつつあった 
というのをそれぞれパッと思いついた。また思いついたらちまちまと書こうかな。

2011年7月13日水曜日

"Rule, Britannnia!"と"Land of Hope and Glory"に見るイギリス帝国の自己イメージ

先日、思いついき、Twitterでつぶやいたことをゼミの先生(近代英国史)に聞いてみました。
漠然と、ふんわりとしたことを言ったのだけど、先生は、その見方は面白いと言ってくださったので、せっかくだしまとめてみることに。

私が聞いてみたのは、「"Rule, Britannia!"と"Land of Hope and Glory"ではイギリス人自身のイギリスの自己イメージが大幅に変わっていると思いますが、どう思われますか?」です。要旨は。

詳細は、うしろのリンク(といってもWikipediaですが)を確認していただくとして、私の意見の論拠を。
この2つはそもそも何なのかというと、イギリスの愛国歌で、Rule, Britanniaは18世紀(1740)でトマス・アーン作曲/ジェームス・トムソン作詞、Land of Hope and Gloryは20世紀(1902)でエルガーの『威風堂々』に歌詞をつけたものです。
あー、もう、フルネーム書くのめんどいから、以下、RuleとLandで。

どちらもイギリスすげぇという歌なのですが、2つには大きな違いがあると思ったんですよ。
Ruleは基本的に「海」の歌です。
Rule, Britannia! rule the waves:
"Britons never will be slaves." 
上は抜粋ですが、ブリタニアは海を統べよ、と言っています。

一方、 Landには次の一節が。
Wider still and wider
Shall thy bounds be set;
boundは「境界」とかそういう意味なのですが、このboundという語は非常に「陸」を意識させる語だと思います。「海」には境界線はありませんから。
とまぁ、漠然と先生に言いましたところ、反応は先程のようですが、19世紀のイギリス帝国は「海上ルートの集積」(Rule)としての帝国から「版図の集積」(Land)としての帝国という意識上の変化が起きたのだろうと私と同意見のようでした。 (「海上ルートの集積」と「版図の集積」という言い方が興味深かった。)
あと、19世紀のイギリス帝国はある論者に言わせると、「ぼぅっとしてるうちに"Land of Hope and Glory"に見るイギリス帝国の自己イメージ大きくなった」とも教えていただきました。直接統治だとコストが…とか、そんなところらしいです。

もっと面白いのは、この2つが夏に開催されるBBC PromsのLast Nightで歌われることですね。

RuleとLandの間を埋める愛国歌をもっと検討すれば面白いかもしれないです。

関連URL
http://en.wikipedia.org/wiki/Rule,_Britannia!
http://ja.wikipedia.org/wiki/ルール・ブリタニア
http://en.wikipedia.org/wiki/Pomp_and_Circumstance_Marches
http://ja.wikipedia.org/wiki/威風堂々_(行進曲)

2010年11月28日日曜日

アイドル/モデルの高学歴化と知識階級の貴族化

最近、アイドル/モデル(その定義はよう分からんので、あえてぼかして適当に。)で学歴をウリにしてる人が多い気がする。ていうか、多い。
なんだか、この傾向というのは、軍隊なら将校、文民なら官僚へ知識層が(特にドイツで)食い込んでいったのとなんだか似てる気がしたので、特に詳しいわけではないですが、思いついた限りを、メモ程度にまとめようかなと。

ドイツの官僚制の発達について1回生の後期で西村 稔先生(京都大学人間環境学研究科教授/法学博士)のヨーロッパ法文化論Bという一般教養の授業を受けたのでかじった程度に知っているに過ぎず、そのなけなしの知識も半ば消えつつあるのだけれども、貴族というのが武勲・血統を尊み、知識を軽んじる傾向があったよう(実際、「貴族(騎士)たるもの文字など読めてはならない」(!)という感じだったらしい)で、最初はそれで良かったのだが、大学出身者が幅を利かすようになると、彼らが貴族化して、旧来の貴族階級に食い込むようになった(という話だった気がする)。

一方、軍事の方では、今読んでる『ミリタリズムの歴史』(A・ファークツ 著)を読むと、同様の傾向があったようで、血統を尊ぶ貴族により占められた軍に、「どこの馬の骨とも分からない」知識階級、もっと適切な言い方に変えると、大学出のブルジョワ階級がそれを武器に、旧来の貴族の抵抗を受けつつ(この本の主題はむしろそちら側なのだが)も、じわじわとしかし着実に進出していった過程が見られる。

官僚階級への知識階級の進出も、軍隊への大学出のブルジョワ階級の進出も、ある時期を境に一気に進んだようである。官僚の方で言えば、ルネサンスと大学の出現が私の知る限りではそうだし、一方、軍隊の方では、ナポレオン戦争や大衆軍隊の出現あたりではないかと、今、『ミリタリズムの歴史』読んでいる限りでは思われる。

振り返って、アイドル/モデルの高学歴化を見れば、見た目は旧来型のアイドル/モデルに、非常に失礼な言い方だが、劣るものの、学歴をウリにしている人たちがその業界に進出しているというのは、上記の2例とよく似てるんじゃないかと感じる次第。先程の「ある時期」というのも、正確な時期をここで示すことはできないが、「クイズブーム」が始まった時期がこの例には相当するのではないかと。この点もよく似ている気がしてならない。

てなわけで、今借りてる本たちが一段落したら、レポートに使うためにちょっとしか読んでない、西村先生の『文士と官僚』をきちんと読もうかなと思っています。