2011年9月30日金曜日

「ペロポンネソス戦争におけるアテネの戦略」(『戦略の形成』所収)

たぶん3回目。現状での理解ないしは、印象深かった点をまとめておく。
  • ペリクレスがスパルタとの戦争を望んだのは、スパルタがアテネの覇権を「しぶしぶ」認めている状況から、明示的に勢力圏を分割する方向性に持っていくため。
  • そのため、ペリクレスはわざとスパルタの主戦派を炊きつけ、防御的な戦略を展開し、「拳を挙げてもアテネはたじろがない」とスパルタに観念させることを企図した。
  • 外港ピレウスとアテネ市が長城でつながれており、攻城技術が未発達のギリシャ世界では、これらの城は攻略困難であった。従って、制海権を握っている限り、また、財政が破綻しない限り、アテネは穀物を輸入することで籠城を維持することができた。
  • アテネはデロス同盟を軸に帝国を創り上げており、財政基盤は開戦当初は磐石であった。
  • だが、ペリクレスの想定したとおり、スパルタは合理的な判断を下さなかったし下せなかった。
  • 戦争は当初の想定を上回る期間に延び、また、想定外の戦略活動が必要とされたため、想定よりも早く、アテネ財政は底を突きはじめた。このことから、ペリクレスの戦略は失敗の運命にあったと言える。
  • ペリクレス亡き以降も数年はその防御戦略が維持されたが、大局に影響はなく 、アテネ市民の一部では、戦略に変化を求める動きが出る。
  • アテネ内部での足の引っ張り合いが半端ない。1つの戦略に集中して取り組むことができたのはやはりペリクレスただ1人であった。
  • アルキビアデスの戦略眼はすごい。(WWIでトリポリ上陸作戦を企図したチャーチルの原則を援用して、彼の戦略を検討している点に注目。筆者はトリポリ上陸作戦の失敗について、戦略上の過誤ではなく、実施上の不手際に原因を帰している点から、チャーチルの原則はかなりの妥当性を持っていると考えている。ジュリアン・コーベットのイギリスの戦い方とよく似ている。)
  • シラクサ遠征は民主制の難しさを示している。非戦派のニキアスは、本心では反対の遠征に必要な人員を過大に民会にふっかけることで、遠征自体への反対を期待したが、スパルタへの不信感・敵愾心に満ち溢れる民会は、決定的勝利を追求してこれを許可してした。また、増援を要求するに際しても、同じことを意図したが、これもまた同じ結果に終わり、最終的にシラクサ遠征は不必要かつ喪失すれば国家存亡に関わるほどにまで大軍となってしまった。当のアルキビアデスは反対派により失脚させられてしまっていた。
  • 大軍の喪失・艦隊への大打撃・都市内の派閥争い・帝国内の反乱と災厄に見まわれつつも、アテネはスパルタとの対抗を維持する。しかし、ペルシャの財政支援を受けたスパルタは海上からアテネを締め付けることを企図し、これに成功する。(筆者は記していないが、アメリカの対日戦争計画・オレンジプランとよく似ている気がする。)
  • ペロポネソス戦争は典型的なランドパワーとシーパワーの激突であり、両者は各々得意とする戦い方(戦場)を以て勝利を目指したが失敗に終わる。一方が他者に勝利するためには、スパルタがそうしたように、相手の土俵で決定的勝利を得る必要があった。
  • ペリクレスの戦略が成功する可能性は、アテネがペロポネソス同盟諸国の痛点に攻撃を加える能力を維持している場合にのみ見いだせるものであった。
  • アテネの成功体験が損害を覚悟の上で陸上でスパルタを撃破するという方向へ自らを導くことを拒んだ。アテネはあまりにもローコスト・ローリスクで勝利を得ることに慣れすぎていた。
  • ペリクレスが疫病で倒れずもっと長く生きていたなら、その防御戦略に代わる適合的な戦略を見付け出していた可能性が高い。アテネをまとめ、一貫して戦略を実行することができたのはペリクレスただ一人であった。 

2011年9月27日火曜日

ズームイン朝のMCとジョッフル

ズームイン朝のMCは降板すると、フリーになる(退社する)。
一方、第一次世界大戦のフランス軍ではフランス陸軍最高司令官のジョッフルが元帥に昇格して、事実上更迭される。
なんとなく、似てるなぁ。

Wikipedia: ドライゼ銃

この新兵器は1848年からプロイセン軍で徐々に配備が始まり、1849年にドレスデンで発生した5月暴動の市街戦において初めてプロイセン軍によって実戦使用されたが、1848年のベルリン暴動で武器庫から多数が盗難されてしまったため、その機密が維持されていた時期は短かった。
プロイセンの台頭と共に、プロイセンと同盟した他のドイツ各州にも普及していったが、保守的だった多くの欧州諸国の陸軍は、ドライゼ銃の紙製薬莢にも後装式の優位性にほとんど理解を示さず、1860年代にプロシアが対外膨張へ転じるまでの長い期間、ドライゼ銃は過小評価され続けていた。
ナポレオン戦争以後、第一次世界大戦以前の軍の保守性というのはいろいろ耳にする(機関銃による濃密な火網の過小評価、決戦兵科としての騎兵の重視、その他もろもろ)ところであるが、この保守性とは他の時代と一線を画するものなのだろうか?
つまりは、この保守性は「他の時代と比べて」保守的である結果のか、そもそも、軍の保守的な「時代を越えた」ありかたが「世間一般に暴露される」ことになった結果のものなのかという疑問である。
前者については、
  • ナポレオンの登場のインパクト(そしてまた、それに対して勝利したという成功体験のインパクト)が強すぎた
後者については、
  • 軍というのが階級を持つものであり、概して年功序列であり、技術・方法論で大変革があると困る上の人が多いのはいつの時代も同じ
  • ナポレオン戦争以後の国民意識の高まり、新聞などの情報伝達手段の発達から、(よく知らないが、従軍記者などによって)軍にも透明性が生じつつあった 
というのをそれぞれパッと思いついた。また思いついたらちまちまと書こうかな。

2011年9月11日日曜日

『ヒトラーとスターリン』:7

『ヒトラーとスターリン』下 p.672 (訳者・根岸隆夫氏による2001年の解説)
独ソ不可侵条約の研究者キャメロン・ワットの論文「諜報活動での驚き―ナチ-ソヴィエト協定の予測に失敗した英国外務省」(雑誌『諜報と国家安全』1989年4月号収録)は、クリヴィツキーが1939年4月29日の『サタデー・イヴニング・ポスト』誌で独ソ不可侵条約締結4ヶ月前に独ソの接近を予測、5月4日に、『ボルチモア・サン』紙記者にリトヴィーノフ外相の解任でスターリンはヒトラーに接近意思を明確にしたとし、同じ2つの記事でスターリンの同郷グルジア出身のカンデラキ・ベルリン駐在ソ連通商代表部による1936年と1937年の冬にかけての対独接近工作に触れているのにかかわらず、英国外務省は全く信憑性に欠くとして無視したと論じている。これは日本外務省とて同じで、クリヴィツキーの証言は公開情報なのであるから、これを重視して独ソ接近のシナリオを描くこともできたはずだ。何よりも日本の外交暗号を(それに陸軍暗号も?)破ったと彼は言っているのであるから、暗号の徹底的変更を行って、1940年代に日本が経験する悲劇を少しでも和らげることができたのかもしれない。公開非公開を問わず情報一般の重要性にわれわれ日本人は著しく鈍感だ。日本語は難しい、外国人にはわかるはずがない、というのは驕りであり無知であるが、当時も今もあまり変わっていないようだ。現在日本の政治・経済・軍事・企業の情報がどれほど刻々垂れ流されているか、想像するだに背筋が寒くなるではないか。ましてインターネットの時代である。昔は今の鏡なのである。

2011年9月10日土曜日

『ヒトラーとスターリン』:6

『ヒトラーとスターリン』下 pp.627-628
情報源、組織、その長がみな優秀だったのなら、いったいなぜソ連はドイツの侵略にあれほど無防備だったのかと問われて当然だろう。
ジューコフはのちに「問題はゴリコフがスターリンの直属で、他の誰にも、参謀長[ジューコフ自信]にも国防人民委員のティモシェンコ元帥にさえも報告しなかったことだ」と述べている。
ゴリコフはスターリンの子飼いで、スターリンはゴリコフの情報本部が作成した報告と分析を読むだけだったのだ。スターリンはチャーチルとちがって、情報の意味と信憑性を自分で判断するために時どき原型のまま情報を調べてみる手間を決してかけなかった。そのうえスターリンは情報の区分け、すなわちマルかバツか、「信頼すべき筋」と「疑わしい筋」に仕分ける作業をゴリコフに任せっきりだった。ゴリコフがいったいどんな分類基準を用いたのか、それは誰にもわからないが、1941年3月20日に彼があちこちのGRU要員に送ったメモからいくらか想像はつく。彼はスパイ網にこう指示していた。「戦争が間近いと述べている資料はすべて、英国またはドイツの情報源によるでっちあげとみなすこと」。
赤いオーケストラの「大親分」レオポルド・トレパーもこういうメモを受け取った側だが、彼によればゴリコフはシュルツェ=ボイゼンやゾルゲやまたトレパー自身といったスパイからの重要な報告の余白に「二重スパイ」とか「英国情報」と書きなぐるのがつねだったという。こうしてゴリコフは、スターリンが自分の現実観に一致しない情報のすべてに抱く疑惑を確認させてやったのだ。
なぜゴリコフはこんなことをしたのか?明白かつおそらく正しい答えは、スターリンがそう望んだということであり、ごり古布はそれにしたがったにすぎず、ロシアの3U症候群、つまりウガダート、ウゴディート、ウツェレートと呼ばれるものを発揮したにすぎないのだろう。これは「嗅ぎつけ、胡麻すり、生き延びる」とでも訳したらいい。あるいは別の言い方をすれば、ボスが何を望んでいるかを知り、何をおいてもそれを提供するということだ。

2011年9月8日木曜日

『ヒトラーとスターリン』:5

『ヒトラーとスターリン』下 pp.611-612
こうした噂話は無意味で取るに足らぬものに思えるかもしれない。しかしこれは混乱と「雑音」を作りだすのに貢献することで偽装宣伝全体の中で極めて重要な役割を果たした。つまり本物の情報を、偽情報や歪曲や不完全な情報の海のなかに埋没させたのである。後になってみれば真実の情報を取り出すのはいつだって簡単だが、その渦中にあっては事実上不可能で、敵が「雑音」製造に成功すればするほど難しくなる。たとえばスターリンは「バルバロッサ」開始が6月22日だという正しい情報を得ていた。しかし彼のもとには開始日が4月6日から5月いっぱい、6月15日至るまでばらつきのある情報も届いており、それがことごとくまちがっていたのだから、ほんとうの日程を額面どおり受け取るのはおぼつかなかったのだ。宣伝省の高官ヴェルナー・ヴェヒターはのちにゲッベルスの手法を見事に単純な言葉でこう説明している。「バルバロッサ」の準備にはおびただしい噂がともなった。「そのどれもが等しく信憑性があり、終いにはどれがほんとうだか誰にもわからなくなっていた」。
攻撃の時が刻々と近づくにつれ、この評はたしかにスターリンと彼の諜報部の幹部たちには当たっているようだった。

2011年9月6日火曜日

『ヒトラーとスターリン』:4

『ヒトラーとスターリン』下
p.547
モロトフの返答は、間違いなく外交史上最も強烈なものだった。ドイツ人はもう英国に勝ってしまったふりをしている、と言ったのだ。したがって、ヒトラーが以前言ったようにドイツが英国と生死をかけて戦っているとすれば、自分としてはこれを、ドイツは「生のため」、英国は「死のため」戦っているのだとしか解しえない。この辛辣な皮肉にリッベントロプが全く気づかず、英国は事実上おしまいだと繰り返すと、モロトフはうんざりしながら、止めの一撃を加えた。
「だったら、我々はいったいなぜこんな防空壕にいるのだ?落ちてくるあの爆弾はいったい誰のものなのだ?」

2011年9月5日月曜日

Wikipedia:Microsoft IME

ナチュラルインプット

Microsoft IME 2002以降から、新しい入力方法として「ナチュラルインプット」が導入され、文節の区切りなどを意識せずに入力できるようになった。また、マイクをパソコンに接続することで音声認識により日本語文字入力をすることも可能となっている。ただし、ナチュラルインプットの対応アプリケーションはMicrosoft Officeなど一部製品に限られる。
またナチュラルインプットでは自動的に前後の文字列を未確定に戻して変換を行うため、再変換機能が前提にあって実現した機能である。
なお、ナチュラルインプットに対して従来の入力方法を受け継ぐものは「IME スタンダード」という名称になっている。
Officeアプリケーションを使用しているうちにIMEスタンダード・ナチュラルインプットが勝手に切り替わってしまう現象が多く見受けられる。これはデフォルトでは「Ctrl + Shift キー」が「入力方法を切り替える」ショートカットキーに設定されており、隣り合ったキーの組み合わせであることから誤って押してしまいがちなためである。言語のプロパティ(Windowsのコントロールパネル)からショートカットキーを変更または無効にすることで対処できる。
ナチュラルインプットの操作性になじまないユーザーが多い上、勝手に切り替わる現象によるストレスを味わう場合もあることから、ナチュラルインプットの評価は概ね低く、ナチュラルインプットは Microsoft IME 2003 を最後に廃止された。
誤変換
 もともと、この学習の癖はベースとなったWXシリーズにも見られたものである。WXシリーズの場合ユーザーもこの特徴を理解しており、学習されやすい入力の仕方を心掛けたり、ユーザー辞書を積極的にメンテナンスして誤学習単語を削除するなどして対処していた。自ら辞書を鍛えることによって変換効率を上げることがWX使いの醍醐味とさえ思われていた。しかし、大多数のユーザーはIMEに使いこなしの楽しみなど求めておらず、そのようなマニア向けのIMEをベースとしたことが今のMS-IMEの問題に繋がっている。もともと、この学習の癖はベースとなったWXシリーズにも見られたものである。WXシリーズの場合ユーザーもこの特徴を理解しており、学習されやすい入力の仕方を心掛けたり、ユーザー辞書を積極的にメンテナンスして誤学習単語を削除するなどして対処していた。自ら辞書を鍛えることによって変換効率を上げることがWX使いの醍醐味とさえ思われていた。しかし、大多数のユーザーはIMEに使いこなしの楽しみなど求めておらず、そのようなマニア向けのIMEをベースとしたことが今のMS-IMEの問題に繋がっている。