独ソ不可侵条約の研究者キャメロン・ワットの論文「諜報活動での驚き―ナチ-ソヴィエト協定の予測に失敗した英国外務省」(雑誌『諜報と国家安全』1989年4月号収録)は、クリヴィツキーが1939年4月29日の『サタデー・イヴニング・ポスト』誌で独ソ不可侵条約締結4ヶ月前に独ソの接近を予測、5月4日に、『ボルチモア・サン』紙記者にリトヴィーノフ外相の解任でスターリンはヒトラーに接近意思を明確にしたとし、同じ2つの記事でスターリンの同郷グルジア出身のカンデラキ・ベルリン駐在ソ連通商代表部による1936年と1937年の冬にかけての対独接近工作に触れているのにかかわらず、英国外務省は全く信憑性に欠くとして無視したと論じている。これは日本外務省とて同じで、クリヴィツキーの証言は公開情報なのであるから、これを重視して独ソ接近のシナリオを描くこともできたはずだ。何よりも日本の外交暗号を(それに陸軍暗号も?)破ったと彼は言っているのであるから、暗号の徹底的変更を行って、1940年代に日本が経験する悲劇を少しでも和らげることができたのかもしれない。公開非公開を問わず情報一般の重要性にわれわれ日本人は著しく鈍感だ。日本語は難しい、外国人にはわかるはずがない、というのは驕りであり無知であるが、当時も今もあまり変わっていないようだ。現在日本の政治・経済・軍事・企業の情報がどれほど刻々垂れ流されているか、想像するだに背筋が寒くなるではないか。ましてインターネットの時代である。昔は今の鏡なのである。
2011年9月11日日曜日
『ヒトラーとスターリン』:7
『ヒトラーとスターリン』下 p.672 (訳者・根岸隆夫氏による2001年の解説)
2011年9月10日土曜日
『ヒトラーとスターリン』:6
『ヒトラーとスターリン』下 pp.627-628
情報源、組織、その長がみな優秀だったのなら、いったいなぜソ連はドイツの侵略にあれほど無防備だったのかと問われて当然だろう。
ジューコフはのちに「問題はゴリコフがスターリンの直属で、他の誰にも、参謀長[ジューコフ自信]にも国防人民委員のティモシェンコ元帥にさえも報告しなかったことだ」と述べている。
ゴリコフはスターリンの子飼いで、スターリンはゴリコフの情報本部が作成した報告と分析を読むだけだったのだ。スターリンはチャーチルとちがって、情報の意味と信憑性を自分で判断するために時どき原型のまま情報を調べてみる手間を決してかけなかった。そのうえスターリンは情報の区分け、すなわちマルかバツか、「信頼すべき筋」と「疑わしい筋」に仕分ける作業をゴリコフに任せっきりだった。ゴリコフがいったいどんな分類基準を用いたのか、それは誰にもわからないが、1941年3月20日に彼があちこちのGRU要員に送ったメモからいくらか想像はつく。彼はスパイ網にこう指示していた。「戦争が間近いと述べている資料はすべて、英国またはドイツの情報源によるでっちあげとみなすこと」。
赤いオーケストラの「大親分」レオポルド・トレパーもこういうメモを受け取った側だが、彼によればゴリコフはシュルツェ=ボイゼンやゾルゲやまたトレパー自身といったスパイからの重要な報告の余白に「二重スパイ」とか「英国情報」と書きなぐるのがつねだったという。こうしてゴリコフは、スターリンが自分の現実観に一致しない情報のすべてに抱く疑惑を確認させてやったのだ。
なぜゴリコフはこんなことをしたのか?明白かつおそらく正しい答えは、スターリンがそう望んだということであり、ごり古布はそれにしたがったにすぎず、ロシアの3U症候群、つまりウガダート、ウゴディート、ウツェレートと呼ばれるものを発揮したにすぎないのだろう。これは「嗅ぎつけ、胡麻すり、生き延びる」とでも訳したらいい。あるいは別の言い方をすれば、ボスが何を望んでいるかを知り、何をおいてもそれを提供するということだ。
2011年9月8日木曜日
『ヒトラーとスターリン』:5
『ヒトラーとスターリン』下 pp.611-612
こうした噂話は無意味で取るに足らぬものに思えるかもしれない。しかしこれは混乱と「雑音」を作りだすのに貢献することで偽装宣伝全体の中で極めて重要な役割を果たした。つまり本物の情報を、偽情報や歪曲や不完全な情報の海のなかに埋没させたのである。後になってみれば真実の情報を取り出すのはいつだって簡単だが、その渦中にあっては事実上不可能で、敵が「雑音」製造に成功すればするほど難しくなる。たとえばスターリンは「バルバロッサ」開始が6月22日だという正しい情報を得ていた。しかし彼のもとには開始日が4月6日から5月いっぱい、6月15日至るまでばらつきのある情報も届いており、それがことごとくまちがっていたのだから、ほんとうの日程を額面どおり受け取るのはおぼつかなかったのだ。宣伝省の高官ヴェルナー・ヴェヒターはのちにゲッベルスの手法を見事に単純な言葉でこう説明している。「バルバロッサ」の準備にはおびただしい噂がともなった。「そのどれもが等しく信憑性があり、終いにはどれがほんとうだか誰にもわからなくなっていた」。
攻撃の時が刻々と近づくにつれ、この評はたしかにスターリンと彼の諜報部の幹部たちには当たっているようだった。
2011年9月6日火曜日
『ヒトラーとスターリン』:4
『ヒトラーとスターリン』下
p.547
p.547
モロトフの返答は、間違いなく外交史上最も強烈なものだった。ドイツ人はもう英国に勝ってしまったふりをしている、と言ったのだ。したがって、ヒトラーが以前言ったようにドイツが英国と生死をかけて戦っているとすれば、自分としてはこれを、ドイツは「生のため」、英国は「死のため」戦っているのだとしか解しえない。この辛辣な皮肉にリッベントロプが全く気づかず、英国は事実上おしまいだと繰り返すと、モロトフはうんざりしながら、止めの一撃を加えた。
「だったら、我々はいったいなぜこんな防空壕にいるのだ?落ちてくるあの爆弾はいったい誰のものなのだ?」
2011年9月5日月曜日
Wikipedia:Microsoft IME
ナチュラルインプット
Microsoft IME 2002以降から、新しい入力方法として「ナチュラルインプット」が導入され、文節の区切りなどを意識せずに入力できるようになった。また、マイクをパソコンに接続することで音声認識により日本語文字入力をすることも可能となっている。ただし、ナチュラルインプットの対応アプリケーションはMicrosoft Officeなど一部製品に限られる。
またナチュラルインプットでは自動的に前後の文字列を未確定に戻して変換を行うため、再変換機能が前提にあって実現した機能である。
なお、ナチュラルインプットに対して従来の入力方法を受け継ぐものは「IME スタンダード」という名称になっている。
Officeアプリケーションを使用しているうちにIMEスタンダード・ナチュラルインプットが勝手に切り替わってしまう現象が多く見受けられる。これはデフォルトでは「Ctrl + Shift キー」が「入力方法を切り替える」ショートカットキーに設定されており、隣り合ったキーの組み合わせであることから誤って押してしまいがちなためである。言語のプロパティ(Windowsのコントロールパネル)からショートカットキーを変更または無効にすることで対処できる。
ナチュラルインプットの操作性になじまないユーザーが多い上、勝手に切り替わる現象によるストレスを味わう場合もあることから、ナチュラルインプットの評価は概ね低く、ナチュラルインプットは Microsoft IME 2003 を最後に廃止された。誤変換
もともと、この学習の癖はベースとなったWXシリーズにも見られたものである。WXシリーズの場合ユーザーもこの特徴を理解しており、学習されやすい入力の仕方を心掛けたり、ユーザー辞書を積極的にメンテナンスして誤学習単語を削除するなどして対処していた。自ら辞書を鍛えることによって変換効率を上げることがWX使いの醍醐味とさえ思われていた。しかし、大多数のユーザーはIMEに使いこなしの楽しみなど求めておらず、そのようなマニア向けのIMEをベースとしたことが今のMS-IMEの問題に繋がっている。もともと、この学習の癖はベースとなったWXシリーズにも見られたものである。WXシリーズの場合ユーザーもこの特徴を理解しており、学習されやすい入力の仕方を心掛けたり、ユーザー辞書を積極的にメンテナンスして誤学習単語を削除するなどして対処していた。自ら辞書を鍛えることによって変換効率を上げることがWX使いの醍醐味とさえ思われていた。しかし、大多数のユーザーはIMEに使いこなしの楽しみなど求めておらず、そのようなマニア向けのIMEをベースとしたことが今のMS-IMEの問題に繋がっている。
2011年8月31日水曜日
『ヒトラーとスターリン』:3
『ヒトラーとスターリン』下
p.467
p.467
「5月15日水曜、午前7時半。ロンドンの海軍省で床についていたウィンストン・チャーチルは、電話のベルでたたき起こされた。6週間前にダラディエからフランス首相を引き継いだ、ポール・レイノーからだった。チャーチルは寝ぼけまなこだったが、レイノーの第一声で眠気は吹き飛んだ。
「我々は敗北した」と、彼は言ったのである――興奮したようすで、英語を使って。
チャーチルはあっけにとられ、一瞬言葉を失った。
「我々は負けたのだ。」レイノーは繰り返した。「戦いに破れてしまった」。
チャーチルは必死になってレイノーを説得しようとした。経験から言えば、ドイツ軍は数日後に補給のために停止せざるを得ないだろうし、その時には反撃可能だ、と。だがフランスの首相は最初の言葉を繰り返すばかりだった。「我々は敗北した。戦いに敗れてしまったのだ」。」
2011年8月10日水曜日
『ヒトラーとスターリン』:2
『スターリンとヒトラー』下
p341
p341
「だがジューコフは持ち前の苛烈な将軍魂を発揮して戦い続けた。あるとき日本軍の重要拠点を急襲し、大損害を出して敗走した師団長が報告に来て次の命令を仰いだとき、ジューコフは再度攻撃するよう命じた。しばらくしてジューコフは自らこの師団長に電話し、どうなっているかと聞いた。
「いつになったら攻撃を始めるのだ?」と聞かれた師団長があやふやな態度をとったので、ジューコフはこの男を即座に師団長から解任してしまった。
「参謀長と電話を代われ」とジューコフは命じた
参謀長が電話に出ると、ジューコフは師団の態勢を立てなおして再攻撃できるかと聞いた。できると答えた参謀長をジューコフはその場で師団長に任命した。この男もまた前任者同様、攻撃に移れなかったのを見てジューコフはふたたび彼を解任し、今度は自分の幕僚をその任につけた。方兵隊と空軍の援護を受けて再度攻撃した師団は、甚大な損害を出しながらもついに日本軍拠点の制圧に成功した。」
登録:
投稿 (Atom)